弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


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描かれる風景と語られないメッセージ ―スガシカオ「光の川」・テクスト的分析

 

スガシカオ歌詞の素晴らしさを伝えたい。

そもそも僕の考え方だと歌詞ってのは歌“詞”、つまり歌のフレーズですので、それをテクスト的に限定、つまり音と切り離して考えるっていう事にそもそも価値があるのか、って問題にもなってしまうんですけどね。以前にaikoの『花火』をテクスト的に解釈するっていう記事を読みましてね。おおこういう読み解き方もありなんだと。まあどの程度有意義なものになるかもわかりませんが、見切り発車でやってみようと。いちおう専門もテクスト分析ってことにしてるし。まあ僕の分析・批評っていうのは前回のBase Ball Bearの話も読んでわかるように「これのここが凄い!」っていうことを推していくのが基本ですので、そうなってしまうのは愛嬌ってことで。

さあ行ってみましょう。今日の題材は、スガシカオの楽曲、「光の川」です。 楽曲はリンクから。歌詞のみはこちらから。転載するとジャ○ラックさんに怒られてしまうので。

 

光の川

光の川

 


スガ シカオ(SUGA SHIKAO) / 光の川

 

これ、僕の中ではスガシカオ的な歌詞の作り方が最も顕著に出ている曲だと思うんです。これを聴けばスガシカオの歌詞はバッチリだ!的な。僕がそう言い切ってしまう理由は、決して語られないメッセージと、冒頭で行われる舞台設定にあります。

 

みなさんが上のリンクから曲を別のタブで開いて聴いている間に、ひとつめを語るうえでの前提条件をささっとお話ししますね。 

僕は、歌詞っていうのは基本的には三種類のパーツを組み合わせることでできていると思っています。それが、①描写と、②自分の(内面を含む)動きと、③メッセージ。この三種類を組み合わせることで、歌詞の中の物語が進行していく。曲によっては、①が欠けていたり、②のみだったりといろいろな形式がありますが、もっとも大きく分類するとこの三つに分かれるのではないかと思います。

最も単純な構造だと、描写がAメロ、自分の動きがBメロ、メッセージがサビ、みたいな感じですかね。もうちょっと流れで説明すると、【①こんなことがありました→②それを受けて自分はこんなことをしました→③そしてこんなことを考えました】といったところ。最初に舞台がどういう状況になっているのかを説明してから、そこから登場人物を深く掘り下げていく、という描き方ですね。そしてこれをループすることで、楽曲が進行していく。いや、もっと凝ったやり方をしているのが普通ですけど。

 

例をひとつ挙げてみると、AKB48「大声ダイヤモンド」

大声ダイヤモンド(DVD付)

大声ダイヤモンド(DVD付)

 

なんでアイドルソングにしたし。なんでリンクまで貼ったし。

まず、最初に語り手、つまり主人公が置かれている状況の描写。(走り出すバス追いかけて…) そしてバスを追いかけながら行われる、もう少し踏み込んだ状況説明と内面の描写。(こんなに簡単な… 素直になろう) 最後に飛び込んでくるメッセージ。(大好きだ、君が、大好きだ…)

こんな感じで、風景と内面、両方の描写を組み合わせながら言葉を作っていく、というのがよくある形式ではないでしょうか。

 

それを踏まえて、もう一度スガシカオ「光の川」を聴いてみます。 

楽曲構造を最初に観てみると、【A→サビ→A→サビ→サビ】という至って簡単な構造。でも楽曲を通して見ると、描写、つまり、こんなことがありました、の部分が非常に長いところが気になりませんかね?

全体から見ると、出だしのAメロから二回目のAメロまで、楽曲の半分以上を描写に当てているんですよね。内面を描くことなく、その起きたこと、映像が淡々と語られる。そして二回目のサビでようやく内面描写が入ってくる。そしてようやく最後のサビで楽曲の核となる言葉が出てくるわけです。

一般的な構造だったら楽曲の4・5分で約二周するような情報量を、5分の楽曲でゆっくりと一周する。情報量が少ないということもできますが、ここは、手間をかけてじっくりと描写している、と言い換えておきましょうか。描写の話はあとで。

 

ここで注目すべきは、最後のサビですね。「途切れた願いは…」から始まって、楽曲の核がようやく語られる部分です。 ここは重要なので、きちんと引用しますね。二行目から。

 

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   途切れた願いは消えてしまうのではなくて

   ぼくらはその痛みで 明日を知るのかもしれない

   すべての祈りが輝きはしないけれど…

   車はいつの間にか 光の川に消えてしまった

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さあ、どうですか。いや、どうですかって。

ここで重要なのは、メッセージがきちんと語られていない、というところです。

まず前半部で「途切れた願い」を救いかけるんですよね。いくら途切れた願いがたくさんあっても、それは無駄じゃなくってそれから君は何かしら得ていると思うよ、と。その痛みで成長しているよ、と。でも、三行目でそれが否定される。いや、全てが全て有意義なわけじゃないけどね、と。

そして…と何か言いかけたところで、曲が終わってしまうんですよね。肩透かしを食らうように描写が入って、曲が終わってしまう。全ての祈りは輝きはしない、しかし…何?! と。

この肩透かし、スガシカオは良く使う方法みたいですね。映画の重要な場面…なのに、セリフが上手く聴き取れない。(「夜明けまえ」)愛の歌は上手くなじめない…けど、口笛なら吹ける。(「SPIRIT」)ずっと今でも君のこと…の後の言葉がみつからない。(「コーヒー」)とか。

この楽曲では、その、メッセージを避ける、というスガシカオの歌詞手法が、他の曲のような、歌詞のある一部分だけ行われているのではなく、楽曲全体を通して行われているんですね。一曲を通して、語らなければいけないはずの大切な話題をできるだけ避け続け、そしてやっと触れたその問題もなあなあのまま終わってしまう。淡々とした描写のあと、迷路の出口を見つけられないまま楽曲が終わるわけです。

こういった、「肩透かし」を丸々一曲使って行っている、というのがひとつ。 

 

 

もうひとつの「光の川」の注目点というのが、単語の置き方です。

一般的な歌詞では、そこで描かれているストーリーが普遍的なものになるように、具体的な単語というものは避けられていると思うんです。例えば、100万枚売っているサザンの「TSUNAMI」

TSUNAMI

TSUNAMI

 

これも一番だけ歌詞をさらっても、漠然としたイメージしか伝わってこないんですよね。ここにはいない女の人を想っていることは伝わってきても、彼女がどうしてここにはいないのかが全く語られない。ただ振られたのかもしれないし、もしかしたら死別したのかもしれない。重要なのは、【ここにはいない誰かを想う曲】という点だったら、どのようにでも解釈できる、ということ。これが、楽曲を普遍的たらしめる要因のうちのひとつだと僕は考えています。どのようにでも解釈できるということは、100人いれば100通りの感じ方があるということで、聴いた人が自分の聴き方をもって、その一曲を「自分の一曲」にできるわけです。

そして、そんな広い解釈ができる要因の一つが、物の名前が登場しない、ということではないかと。非物理的な名前(火、水、etc)はたくさん出てきても、物の名前(電話、リンゴ、etc)が殆どでてこない。つまり、先程書いた①の描写のような、舞台を作る役割を果たしているような単語がほとんど登場しない。こんな形がある物の名前のことを、この後の文章では“物理的固有名詞”と呼ぶことにしますね。そして、この物理的固有名詞が一切存在しないことが、聴き手の想像が入り込む隙間を生み出している訳です。それに加えて、受け皿の大きい言葉・小さい言葉ということもあるのですが、それについては別の機会で。

蛇足です。以前にどなたかは忘れましたが有名なミュージシャンが詩を書くときに何故流行りの言葉を使わないのかという質問をされていたんですね。そしてそれに「だって、流行りの言葉で詩を書いたら時間が立った時に古くなっちゃうじゃないですか」と答えていました。言われてみれば90年代の歌詞に出てくる「電話」は間違いなく備え付けの家庭用電話機だったのが、最近の歌詞に出てくる「電話」は間違いなく携帯電話の事ですよね。むしろケータイって言っちゃってるし。でもそのうちガラケーを使っている人が絶滅してスマートフォンが流行るようになって、「ケータイ」って言葉も古くなるか、意味が変わってきてしまう。これが物理的固有名詞の一種の弱さでもあるんですかね。 

何が言いたいかと言うと、そもそも物理的固有名詞を使うメリットは、言うまでもなく“想像を容易にする”ことにあるのではないか、ということです。身近なものが歌詞の中に登場すれば、聴き手にとっての適当なディレクションにもなり、ある程度の想像と感情移入が行いやすくなる。例えば、「バスを追いかける」と言っただけで想像がどんどん膨らんでいくでしょう? この例で思い当たる曲で一番素晴らしいのが、Sound Schedule「ピーターパン・シンドローム」、サビ入りのワンフレーズ。ぜひご一聴を。

つまり、この物理的固有名詞を使う、ということは何も置いていない舞台に、舞台装置だったり小道具だったりを持ち込む、ということ。舞台がマンションの一室か洞窟の中か、そこにいるのが誰か、ということがわかればある程度何が起きるかは想像できる、ということですね。そして、物理的固有名詞が全く存在しない、つまり小道具どころか舞台すら全く使わずに聴き手から一定の感情を引き出している、と言う点で「TSUNAMI」はとんでもない楽曲である、ということですね。もはや空気に色を付ける試みと言ってもいい。

 

そんな言葉の話を踏まえて、もう一度「光の川」を。

この曲、冒頭の数文を読めば分かるように、物理的固有名詞のオンパレードなんですよね。週末の渋滞、車、助手席、と並べただけであるていどの風景を想像できるような単語がすでに散らばっているんです。そのせいで、冒頭を聴いただけでどこで何が起きているのかがばっちりわかる。ちなみに先程使ったAKB48の「大声ダイヤモンド」で出てくる物理的固有名詞は「バス」だけですね。

この、歌詞ではなかなか使われない、もしくは避けられるような物理的固有名詞を、スガシカオは歌詞の中でバンバン使ってるんですよ。 

例えばこの「光の川」が収録されているアルバム『TIME』に収録されている曲だと、「カラッポ」、「アーケード」、「クライマックス」、「秘密」、辺りでしょうか。

TIME

TIME

ここで注目すべきは、物理的固有名詞を使う以外の方法でもスガシカオは想像のディレクションを行っているということですね。

例えば、「カラッポ」歌いだしの“テレビショップの何にでもきくクリーム” 、というフレーズ。テレビショップという単語自体がなかなか強い力を持っているのもそうですが、これが入ってくるだけで深夜まで何もすることが無い癖に何故だかずっと起きている男の絵が浮かんできますね。蛇足ですが、同じように固有名詞は存在しないのにウルトラC級の想像のディレクションをキメている楽曲がモーモールルギャバン「Good Bye Thank You」ですね。こっちは音源が無かったので歌詞だけ。

 

話を戻しましょう。つまり、今までの話を想像すると「光の川」で行われているのが、これから歌う曲の内容を一番最初に全て語ってしまう、という方法なんですね。渋滞につかまってる時に隣をばーっと走って行った車の助手席に座っていた人が君に似ていました。この歌い出しが入ってくれば、聴き手は、ああそういう曲ね、とある程度イメージを限定できるんです。その後にどんな情報が飛び込んできても中心にあるイメージはブレませんから、ひとつの風景からいろいろな物を抜出し、語ることができる

このアルバムに収録されているシングル曲はこの方法が顕著に表れていて、「クライマックス」「秘密」も同じような手法で歌詞の世界が作られていく。聴き手にある程度同じ風景を見せて共有することで、ひとつひとつのディティールが細かく描けるし、そこから連想される感情も同じようなものである、ということですね。

この、物理的固有名詞を多く用いた冒頭での舞台設定と状況説明、というのがふたつめ。

それだけで場面が浮かんでしまうような単語を並べるという最小限の情報で、舞台設定の説明を済ませているんですね。こうした、ポイントを衝いた隙間のある舞台設定が、スガシカオの楽曲を普遍化させる試みと言えるのではないでしょうか。

 

 

この二点が、「光の川」に見ることができるスガシカオ楽曲の歌詞の特徴です。テクスト的分析というよりも、スガ詞の特徴、みたいになってしまいましたね。ただ、内容よりも構造を重視する、というのはなかなか自分でやっていても興味深いものだった気がします。

スガシカオ、詞世界を楽しむのであれば先程も紹介したアルバム『TIME』、もしくは最近の一枚、『Sugarless Ⅱ』をお勧めします。ぜひ。 

 

こうして書きたいことをずらずら書くと、しめくくりに非常に迷うんですよね。

まあ夏休みなのに記事をなかなかかけていないのでこれからはもっと頑張って書きます、とでもしておきましょうか。ではでは。