弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

ポップスにおけるプライベート空間の可能性 ――ayU tokiO『恋する団地』、tofubeats『ディスコの神様』

 ポップスのパワースポットが都市から郊外、もしくは地方にある生活空間に移りつつある、気がする

 

恋する団地

恋する団地

 

 

 自身の音楽のテーマに〈J-POP〉〈Internet〉〈Newtown〉を掲げる音楽プロデューサーtofubeatsの楽曲「水星」のディスクレビューにて、音楽ライターの磯部涼は、「(廃墟と化した都市に)プロジェクション・マッピングさながら架空の都市を投射する音楽」であるとした。都市が強い吸引力を持っていた頃から時代は変わってしまった。今や都市の姿は語るほどのものでもなくなり、我々は都市にいながらにして〈ここではないどこか〉を夢想する。そんなノスタルジーや甘い空想を描くための空っぽの入れ物となってしまった都市空間をtofubeatsは新たな視点をもって語り直そうとしている。今や、夢と娯楽すら架空現実に奪われてしまった都市空間で我々がポジティブに生きていくためには、今生きているこの場所を何かの物語が始まる予感に満ち溢れた、自分が主人公のストーリーが描かれる舞台なのだと自分自身を錯覚させなければいけないそのために、退屈な都市に華やかな舞台を「投射」するのだ

 

lost decade

lost decade

 

 

 しかし、アルバム『lost decade』後にリリースされたシングル『ディスコの神様』でtofubeatsは物語を始めるために街に出るのではなく、狭い自室に引きこもる道を選ぶ。「ディスコ」や「ミラーボール」という彼の特徴的なモチーフを繰り返し用いながらも、主人公が退屈な部屋から出ていくことは無い。舞台は彼がテーマとして掲げるニュータウンの一室だろうか。舞台やそこで繰り広げられる物語から遠く距離を置いた場所で、主人公は「今夜楽しく」するきっかけを求める。そんな、ひとりぼっちの自分の部屋で引きこもっている夜を彩るのが「ディスコの神様」だった。

 ポップスが都市そのものを語ることができなくなった現在、tofubeatsは我々に二通りの世界からの逃げ道を提示した。それが、都市を舞台へと造り替える方法と、都市から離れ、何もなかったはずの自分の部屋を舞台にしてしまう方法であった。膨大なデータベースにさえ接続できれば、今や都市と郊外の情報格差はほとんど無いと言っていい。インターネットさえあれば、郊外、つまりニュータウンですらディスコにすることだってできる

 

 ウイリアム・ギブスンの小説『ニューロマンサー』は、インターネット普及以前にしてサイバーネットワークが世界中に張り巡らされた世界を描いた。頭にプラグを差し込んでインターネットの世界に意識をダイブさせるというモチーフは、後に映画『マトリックス』や士郎正宗攻殻機動隊』でも繰り返し用いられることになる。ここで注目すべきは、『ニューロマンサー』が日本、しかも東京では無く千葉を舞台として設定している点にある。この世界における千葉(チバシティー)は最先端のサイバー技術が集結する都市であり、世界中からありとあらゆる人間の集まる治外法権地区として描かれていた。ニューロマンサー』は、東京では無く、都市から距離を置いた場所、千葉をパワースポットとして扱ったのだ。

 情報へのアクセスが容易になるという事は、情報が集まるリアルスペースの価値が下がるという事だ。ウイリアム・ギブスンは1984年にして、サイバーネットワークが整備された社会ではリアルスペースの価値は下がり、都市の持っていた情報やエネルギーはネットワークを通じてあちこちへ分散していくことを見抜いていたと言ってもいい。

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

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  かつては〈DJ NEWTOWN〉と名乗りインターネットを経由して自身の楽曲を世に送り出していたtofubeatsは、『ニューロマンサー』の主人公ケイスがチバシティーからありとあらゆるネットワークへハッキングし自分の意識をダイブさせていくかのように、兵庫県ニュータウンから、世界中のiPhoneに自身の楽曲を送り込むのである。

 

 

 そんな、ポップスがリアルスペースからサイバースペース都市から郊外へとそのパワースポットを移しつつある中で、都市やサイバースペースではなく、今まで無視され続けていた我々の生活空間を題材として扱ったのが、ayU tokiO『恋する団地』、そう、〈団地〉である。大友克洋が『童夢』で、孤独な老人の心を蝕み、住民が次々と謎の自殺を遂げていく空間として描いた〈団地〉が、ついにポジティブな空間として生まれ変わることになる。

童夢 (アクションコミックス)

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 まず前提として注目しなければならないのは、都市でも団地に関わらず、作者が実際に住んでいる空間をポジティブな空間として描くことは非常に難しいということである。何故ならば、作者それぞれの生活に関わらず〈現在〉とは常に満たされないものであり、それを肯定することは難しいからである。そういった満たされない〈現在〉が閉じ込められた生活空間は、常に未来や過去、つまり「ここではないどこか」を願うための空間となる。それゆえにひたすら純粋な生活空間である団地は、未来の予感、「ここではないどこか」へのアクセスを断ち、我々を閉じ込める空間として描かれてきた。都市を描いたポップスが閉塞感やその重力をテーマとするようになったのも、それまでは非日常の空間だった都市が日常の一部、生活空間として変化したからに他ならない。

 郊外を舞台とした作品として宮藤官九郎脚本のテレビドラマ木更津キャッツアイの名がよく挙がる。本作品は「夢のない場所」として郊外(木更津)を舞台としながらも、主人公と草野球仲間のハイテンションな生活を描いた。しかし、郊外での生活を謳歌する彼らの裏には主人公・ぶっさんが病気で余命が半年という現実があった。有限の生活を自覚した瞬間に日常が輝きだすのである。これを『ゼロ年代の想像力』において社会学者・批評家の宇野常寛は「終わりある(ゆえに可能性に満ちた)日常」と評した。つまり、日常の終わり、有限性を意識することで初めて日常が輝き出すのであるありとあらゆるフィクションで繰り返し用いられてきた〈青春〉というモチーフも、それが十代のひと時のみに許された有限の日常だからに他ならない

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

 

 

 

 そんな中で、ayU tokiOことイノツメアユ(猪爪東風)は、「ここではないどこか」へのアクセスを断ち、我々を現在に閉じ込めようとするネガティブなイメージと共に語られてきた団地というモチーフに今一度フォーカスを当てる。彼が試みるのは、団地を外側に向けて開けた空間にするのではなく、むしろ生活空間としての団地の〈プライベート〉性を強調することである。

 ミニアルバムの表題曲「恋する団地」は、「秘密の中へ ボクも一緒について行ってもいいかな」というフレーズから幕を開ける。この楽曲で語られるものはすべて、非常に微弱な情報から来る繊細なモチーフばかりである。「転がる石ころ」や「300m」という「君」と「ボク」のアナログな距離感、そして主旋律では無く、それを支える「コーラス」や「ハーモニー」にスポットを当て、〈赤色〉ではなく、それを薄めた「桃色の微熱」。そして極め付けが「君の鼻歌」というモチーフである。

 

 生活の中で馴染みの歌が口からこぼれることはよくあるものの、我々が口にするどんな種類の歌の中でも特別にプライベート性が高く、個人の領域で完結しなければならないものが鼻歌である。聴こえるか聴こえないかの音量でありながら、その気が無くても口からこぼれてしまうものであり、ましてや誰かに聴かせるつもりは一切なかったであろう「君の鼻歌」が、「ボク」の耳に流れ込んでくる。それは言うまでも無く、「君」の、誰に見せるつもりも無いプライベートな空間を垣間見た瞬間であった。「ボク」はその繊細な鼻歌から、彼女のプライベートな世界を少しずつ紐解いていくことになる。

 山崎ナオコーラ原作・井口奈己監督作品『人のセックスを笑うな』の主人公である美大生の青年みるめも、年上の女性の出す物音や彼女の呼吸にひたすら耳を澄ますことで、彼女のプライベートな世界に少しずつ足を踏み入れていく。パブリックスペースでは鼻歌や繊細な物音は外部の下品なノイズにかき消され、いくら耳を澄まそうと誰かに届くことは無い静寂を共有できるということはプライベートな空間の特権であり、イノツメアユは鼻歌が聴こえてしまうほどの〈非・公共的〉な空間として団地を描こうとする

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 SNSなどのネットワーク空間を引き合いに出して繰り返し語られるように、インターネットはパブリック性とプライベート性の入り混じった、どちらでもないがどちらでもある、グレーな空間である。「ディスコの神様」をはじめとしてtofubeatsは、インターネットを通じてニュータウンの一室を世界中に接続しようと試みる。それは、自分の部屋という究極のプライベートスペースを限界まで拡張していく試みであった。それは、ネットワークの普及によりリアルスペースの価値が下がった現在だからこそ成立し得る、〈ここでなくてもどこでもいいのならば、別にここだっていい〉という、都市の空洞化を逆手に取る発想である。そして、インターネット上で成立してしまうパブリックとプライベートの入り混じった空間は、時として窮屈な空間になってしまうことは今更語るまでも無い。

 狭い自分の部屋を除けば、完全なるプライベートが成立する空間は非常に限られてしまっているのではないだろうか。都市は常に自分を突き放し続ける〈異なるもの〉であるし、スマートフォンを覗けば一流企業に就職した友人の海外旅行の報告が否応なしに目に飛び込んでくる。そんな中でイノツメアユは、完全なプライベートスペースが成立する可能性を、都市やインターネット上では無く純粋な生活空間、つまり団地に見出そうとするのだ。そこで描かれる風景は自転車で行き来できるレベルにコンパクトなものであり、同時にほどよい自然につつまれているようなノスタルジックな空間でもある。ノスタルジック、つまり記憶の中にある空間はある意味では究極のプライベートスペースであり、何者にも侵食されない絶対的な領域である。

 

 しかし彼は、決してプライベートスペースに留まろうとはしない。「恋する団地」の中盤、物語が大きく展開していく場面ではこのプライベートスペースの外側の世界を匂わせる。「もし君のハートを揺らす何かが この四角い街の 外にしかないと知っているのなら」。〈思っている〉のではなく「知っている」のだ。ここ、団地に存在するのはプライベートであるがゆえに豊かな可能性を見いだせない、安全な空間であった。イノツメアユは、生活にめまぐるしい変化と豊かな可能性を見出すためには、プライベートスペースに閉じ籠もっていてはいけないことに気付いている

 言うまでも無くパブリックとプライベートは表裏一体のもので、どちらかが無くしては成立しえないものである。パブリックを失ってもプライベートを失っても、生活のバランスを崩してしまう。そして我々は、安全なプライベートスペースに閉じ籠もるわけには行かず、最終的に我々はパブリックスペースで生きていかなければいけない表と裏、誰かの鼻歌に耳を傾けパブリックスペースとのバランスを取るための場所として、イノツメアユは団地を描こうとする。彼の目的はプライベートスペースに閉じ籠もることではなく、パブリックスペースと戦うための逃げ道をプライベートスペース、つまり団地に見出すことであった。

 

 

 『恋する団地』は「米農家の娘だから」の、「今週末 帰るね」というフレーズで幕を閉じる。宮藤官九郎が生活の有限性を語ることで日常を輝かせたように、プライベートスペースからその世界の外側を意識すること、同様にパブリックスペースからの逃げ道を気にかけることで、それぞれの空間を描こうとするのである。思えばtofubeatsもディスコやパーティーという非日常空間を描いておきながら、パーティーの終わる瞬間に非常に敏感だった。

 イノツメアユは、パブリックスペースに侵食されてしまった我々のプライベートスペースを再生しようとする。その舞台として、都市でもインターネット上でもなく、パブリックスペースに接続し得ない純粋な生活空間としての団地を描いたのだ。我々に必要なのはパブリックでもプライベートでもあるグレーな空間に身をおくことではなく、その両者を混ぜること無く、上手に行き来することであった

 都市にまつわるモチーフとイメージがひと通り語り尽くされた現在、我々がするべきは公共性から切り放たれた生活空間に身をおき、その〈ヌルさ〉を肯定することなのかもしれない。

 

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引用した磯部涼さんのテキストはこちら。

――tofubeats - 水星 | トーフビーツ | ele-king

 

 

以前の記事もサブテキストとして一緒にどうぞ。

 

東京出身者のための東京論 ――岩井俊二『スワロウテイル』、ノスタルジーとしての「東京」ソング

――我々と都市と〈現在〉の関係についてはこちらを。

 

彼女の呼吸を聞きながら

――映画『人のセックスを笑うな』についてはこちらを。二年前に書いたものですがそこそこ読めるはずです。