弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

結局は自分探しのパフォーマンス  ――今月のUstream『アズミ・ハルコは行方不明』(山内マリコ)前口上

  このブログの内容とも関わる本が、Ustream放送で、ついに。 

アズミ・ハルコは行方不明

アズミ・ハルコは行方不明

 

 

 例えば僕は、重ための記事二つも使って〈場所〉とか〈空間〉についてだらだら書いているわけですが、こうした話をする時に常に根底にあるのが「ここではないどこか」への志向だったと思うんですよ。その志向が〈場所〉の問題として語られるか、それともノスタルジーや輝かしい将来など〈時間〉の問題として語られるか。そのバリエーションはありますが、どちらも「ここではないどこか」、「いまではないいつか」という、「今、現在の否定」という点で共通している。つまり、常に現在は物足りないものツイッターを覗けば「霧散したい」と「彼女ほしい」ばっかりですよ。常に「はぁ。幸せ。」なんてツイートしてる奴はたいてい脳内お花畑ですよ。

 で、息を吸うように現在を否定する我々がすることと言ったら、生活を劇的に変えてくれる何かを〈探す〉ことですね。自分探しとか居場所探しとか、流行っていますよね。ちょっと面倒な言葉を使って説明するとつまり「大きな物語の崩壊」と言うやつで。やれ戦争中だ、やれ高度経済成長だ、という時代は、「成長して大人になって、お国のために戦う」とか「輝かしい未来へ向けて国の発展に貢献する」とか、いわゆる「生きる意味」を自分で無理やり見つけなくても世界が与えてくれる時代だった。しかし経済発展が行き詰った現在は、国のために汗水たらして働いてもそれが発展にはつながらないし、自分に輝かしい将来が待っているとも思えない。社会全体が同じ方向を向いて走っている時代だったら自分も何も考えずに一緒になって走ればいいものを、現在はそれぞれがそれぞれの方向を向いて好き勝手に走っている時代だから、自分はどう走っていいかわからない。その、自分の目標だったり将来だったり、行き先を探すためのひとつの方法として、「自分探し」が流行っている訳です。ちなみに、こうしたみんなが同じ方向に向かって走っている、みんなが戦争に勝つことだったり国を豊かにすることだったりという目的を共有して、それに向かって動いている状態を「大きな物語」、そしてそれが無くなることを「大きな物語の崩壊」とかよく言うみたいです。この辺りの説明がわからなかったら、適当な現代思想の本でも読んでください。

 

 

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)

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 (これとか)

 

 黙って生きていればよかった時代から、自分で生きる意味を見つけなければいけなくなった時代へ黙って生きていれば何者かになれた時代から、自分の力で何者かにならないといけなくなった時代への変化は「変わらなければいけない」プレッシャーとして、〈現在〉を生きる我々への圧力を生み出すことになりますそれが「今、現在の否定」と「ここではないどこか」という志向へ繋がっていきます

 現在とは、常に満たされないものなんです。それをどう満たすか、であるとか、それをどうやり過ごすか、というのはフィクションやポップスでも繰り返し問題になりますね。

 

 

 さあ、長ったらしい前置きを挟みまして、今月のUstreamいいんちょと愉快な鼎談』、お題は山内マリコ『アズミ・ハルコは行方不明』です。ちなみに、以前にも『愉快な鼎談』で山内マリコさんの著作を扱っていまして。それが『ここは退屈迎えに来て』。地方/郊外で生活する女性を主人公にした短編集でした。

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

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(文庫化して手に取りやすいお値段となっています) 

 

 主人公は大学入学をきっかけに都会(名古屋)へ出たものの、それぞれの理由で地元(地方)へ戻ってきた男性2人(ユキオと学)と、高校卒業後から地方で生活し今にいたる女性、愛菜。高校卒業後、偶然3人は地元で再会します。そして、ドキュメンタリー映画『イグジッド・スルー・ザ・ギフトショップ』をきっかけとして意気投合した男性2人は、グラフティーアートのチーム〈キルロイ〉を結成、成り行きで愛菜も参加します。〈キルロイ〉は人探しのポスターを題材として制作したグラフティーアートを街中に描くことで、拡散させていきます。そのグラフティーアートは人探しのポスターをモチーフにされていまして、そこで探されていたのが、アズミ・ハルコこと安曇春子。そして彼らのグラフティーアートが注目されて、町おこしイベントに関わるようになって、そこに少女ギャング団が関わって、云々。

 『ここは退屈…』がそうだったように、『アズミ・ハルコ』も地方都市を舞台にした物語ですね。

イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ [DVD]

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 (当日までに観ておいたほうがいいかなあ)

 

 

 前置きで書いたように、多くのフィクションのテーマとなる「探す」というモチーフは、『アズミ・ハルコ』でも踏襲されています。ここではないどこか、豊かな未来への可能性として主人公の三人組はアズミ・ハルコを「探す」。物語の舞台である地方都市は、生活を豊かにする情報や可能性の希薄な、外部へのアクセスを断つ場所として描かれます。その中でグラフティーアートによって探されるアズミ・ハルコは「ここではないどこか」や、「現在の外側」の象徴として描かれる。地方の少年は、無意識のうちに自分たちの現在を打開する何かがやってきてくれるのではないかと地方都市でもやもやする訳です

 しかし、ここで注目しなければならないのが、彼らの「探す」という行為は完全に形骸化しているんですよね。あらすじを読んで、あれっ、と思った人も多いかとは思うのですが、〈キルロイ〉は似顔絵付きで〈アズミ・ハルコ MISSING!〉というグラフティーアートを街中に描いてはいるものの、それは直接的にアズミ・ハルコを「探す」という行為に結びついていない。わかりやすくいうと、「探す」というポーズをしているだけなんですよ。

 

 ここで僕の大好きな映画桐島、部活やめるってよに対する町山智浩さんの映画評を参照してみようと思います。素晴らしい映画評なので一度目を通してみてください。

 町山さんは『桐島』を、サミュエル・ベケットの戯曲ゴドーを待ちながらと比較することによって捉えようとします。『ゴドーを待ちながら』は、ふたりの男がゴドーという男をひたすら待っているんだけど、結局ゴドーはやってこない、という物語。そしてここで語られるゴドーとは、つまりゴッド(神)なんだ、と。

 冒頭で書いた「大きな物語」と同じような話で、宗教が強い国の人々は「神様が自分に生きる意味を与えてくれるのではないか」という思考を持っている。しかし、そんな我々に生きる意味を与えてくれる神様は、待っても待ってもやってこない。そんな〈神様不在の社会〉、つまり「大きな物語の崩壊」後の社会と似たような場所を描いた物語である、と。

 そして、映画『桐島』における桐島は「キリスト」である、とします。『桐島』も、クラスの中心人物がいなくなってしまって、自らを社会と結びつける絶対的な価値が不在になってしまった社会で高校生が右往左往する、という話でした。つまりこれも、社会が生きる意味を与えてくれない時代にどうやって生きていけばいいのか、という話。『桐島』はこの問題に対しての突破口をスクールカーストから脱落して部活や趣味に打ち込むオタクグループに見出すのですが、それはまた別の話。

桐島、部活やめるってよ(DVD2枚組)

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(二度と観たくないくらい好きな映画です) 

 

 

 また前提が長くなってしまいましたが、この小説『アズミ・ハルコ』も『ゴドーを待ちながら』や『桐島、部活やめるってよ』と同じような〈不在〉、そして〈探す〉話として読み解いても面白いと思うんですよね

 しかし、前述したように『アズミ・ハルコ』がその他の〈不在〉の物語と決定的に異なっているのが、主人公たちはアズミ・ハルコを本気出して探してないことなんですよ。彼らにとってはアズミ・ハルコはいてもいなくても自分の生活に全く変化は無い、無関係な存在。もともとはグラフティーアートの題材として拾っただけで、彼らとアズミ・ハルコは知り合いでもなんでもない。『桐島』の高校生たちのように、中心が存在しなくなって右往左往することも無い。彼らにとってのアズミ・ハルコの不在は、極端な言い方をしてしまえば〈グラフティーアートをするためのネタ〉なんですよ。

 多くのフィクションが「ここではないどこか」の志向から生み出されたのに対して、〈キルロイ〉はアズミ・ハルコを探すのではなく、その不在〈のみ〉を語る。それは、彼らのグラフティーアートではアズミ・ハルコのイラストの下に書かれる文字が「WANTED」(お尋ね者)ではなく、「MISSING」(行方不明)であることからも明らかです。

 つまり、〈キルロイ〉のグラフティーアートには「今、現在の否定」は存在しているにも関わらず、「ここではないどこか」への志向が存在していない。言ってしまえば「不平不満を語ってダダをこねるだけの少年たち」、と言えないことも無い。そこから何かを生み出そうとすることは無い。これを「自己反省のパフォーマンス」に習って「自分探しのパフォーマンス」と名付けましょうよ。

 しかしだからと言って『アズミ・ハルコ』が『桐島』と比較して後退している作品かというともちろんそんなことはなく。僕からしてみればこんな、形骸化した中身の無い自分探しに走ったり、ただ不平不満で大声を出すだけの若い連中というのは非常にリアリティーのある話で。自分探しをするんだけれども、別に必要に駆られているわけではないから本気で行動したりはせず、ただ対象の周囲を巡回しているだけ、というのは非常にドキリとする話なのです。面白そうですよね、「自分探しのパフォーマンス」の話。

 議論のネタにもなりそうなので、放送本番まで取っておきますが。

 

 物語の終着地点としては、主人公の男性2人、ユキオと学はアズミ・ハルコ、つまり「ここではないどこか」の匂いを感じながらも、グラフティーアートの活動をやめてしまう。そして主人公の女性ひとり、愛菜はアズミ・ハルコと実際に顔を合わせることになり、彼女は「芸能人に会ったみたい」と語ります。どこかにあるはずなのに、どうせ自分とは関係ないものだと思っていた「ここではないどこか」を目の当たりにして、彼女は感動する訳でもなく、幻滅する訳でもなく、淡々とした反応を示すことになる

 ここには恐らく、「男の人って夢を見たまま、なんとなく社会に染まっていくのよね」というそこはかとない男性ディスがあって、それに対して女性は夢も見ずに意外と現実的、そして「生きる意味」なんて無くても適当にしぶとく生きていく、という。いや、恐らくこんなに簡単な結論では無いんだけど。女の子ひとりはグラフティーアートについてもそんなに乗り気じゃ無かったしね。

 

 

 そのほか、街で暗躍する少女ギャング団と『スプリング・ブレイカーズグラフティーアートと拡張現実、そして「この街はぼくのもの」語りたいところ満載の作品『アズミ・ハルコは行方不明』でございます。著者の山内マリコさんは恐らく「女の子の生き方」について非常に敏感だと思うのだけれど、この小説で導き出されている答えに世の女の子はどうリアクションをするのか、ということも聞いてみたいですな。

 

 と、言うことでUstreamです。『いいんちょと愉快な鼎談』、今月の放送は夏休み最終日、8月31日の20時からです。

(URL:http://www.ustream.tv/channel/atsushi-s-broadcasting

 夏の終わりのUstream。是非遊びに来てくださいね。