弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

赤い公園が回避する「アバンギャルドの回路」

 今回の乃木坂46さゆりんご事件、ぼくらにはふたつの選択肢が用意されている

 ひとつはもちろん、本人の弁明を信じること。もうひとつは、彼女の弁明は嘘で、いろいろ問題があるけど本当はガチな関係だったんだろうと考えること。前者は彼女がナンパされた知らないおじさんにホイホイ付いて行って路チューするタイプの、多少なり軽率なところがある女性であることを認めることになり、恋愛禁止を破ったことにはならなくてもイメージ的にそれとはまた違う形でマイナス点が付くことになってしまう。後者は彼女が男性や交際についてある程度は真っ当な感覚を持っている(稀なケースではありますが、ハタチそこそこの女の子がおじさんと付き合う、ということは無いわけではありません)というエスケープはできるものの、ファンに向けて嘘をつきながら身を守ろうとしていることと、何よりも自分たちが彼女の言葉を信じることができなかったことを認めることになってしまう。さっしーの時とはちょっと違う、やきもきして、どっちに向かっても違うジャンルのダメージを受ける感じのヤツです。

 事実がどこにあるかはわかりませんが、ある程度の人望があれば恋愛スキャンダルくらいはファンがなんとか飲み込んでくれることを先人が証明してしまった以上、「交際は事実」「でも家庭持ちというのは知らなかった」の一点張りで通すのが、切れ味のいい刃物でひと突きされるぶんトータルのダメージが1番少く済んだような気がします。魅力的な人は本当に魅力的なもんです。そこに交際経験のある・無しは彼女がアイドルである以上は重要なのだけれど、本質ではない。もちろん突き詰めて人間不信になるなら第3、第4の選択肢もあるのですが、これを考え出すと本当に悲しい気持ちになっちゃうのでここでは内緒。

 

 下世話な話はこれくらいにして。

猛烈リトミック(初回限定盤)(DVD付)

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 いきなり脇道に入ってやりたい放題でしたが、まずはtofubeatsですよトーフビーツ

 tofubeats代官山UNITオールナイトイベントに行ってきました。まあ楽しかったこと楽しかったこと。今までDJがメインのイベントに行った事って無かったんですが、ある一定の決まりに寄り添いながら音楽がかかるってあんなにも気持ちがいいんですね。そして、そのイベントのゲストとしてtofubeatsが「ディスコの神様」でコラボレーションした藤井隆(気持ちはさん付けですけど、泣く泣く敬称略。これ以降も登場する人名は全て敬称略)が来ていたんですよ。tofubeatsとのステージが終わってから、DJと藤井隆のステージがはじまりまして、藤井隆が自分の曲に合わせて歌って踊ってました。曲はほとんど02年にリリースされた『ロミオ道行』からの選曲だったと思います。

 こうやって書いてしまうとただのカラオケのように見えてしまって、そして実際のところ本当にカラオケなのですが藤井隆のスター性も相まって滅茶苦茶楽しいステージでした。前編では歌い手と作り手の関係を歌い手の側から考えたのですが、この藤井隆のステージも歌い手について考えるいいきっかけになったと思います。

(「ナンダカンダ」もいいですが、こちらもどうぞ)

 

 極論、歌い手がスターだったらただのカラオケでも楽しい。みなさん身に覚えがあるのでは。

 

 そして、tofubeatsの最新作『First Album』も目茶苦茶喋りたくなる傑作なのですが、それはまた別の機会に。

First Album(初回限定盤)

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 そしてそのイベントで、昨年からさんざん話題になっている、みんな大好きShiggy Jrを見てきました。いやあもう、本当にポップで楽しい。一番びっくりしたのが、ボーカルの女性(池田智子)は本当にあの声のままで歌って、そして喋るんですよね最後の方はもう思いっ切り、「ともちゃーん!!」って叫んでたからねしょうがないね

 そしてShiggy Jr、作詞・作曲を手掛けているのはギターの原田茂幸。いわゆる「女の子の気持ち」を歌詞にして歌っていそうなShiggy Jrですが、よく聴いてみるとものすごく人を限定的するような「私」の語りが避けられていて、ふわっとした表現で歌詞がまとめられているのがすごく印象的です。歌詞を「ふわっとした」表現で書く、というのはポップスにおいてすごく大切なことだと思うんですよね

 

 例えば、「近所に住んでいて小さい頃からすごく仲良くしていた幼馴染の女の子なんだけど、中学・高校と年齢を重ねるにつれて妙に距離が生まれてしまった。周りの目も気になるのはもちろんだけど、オタクグループの僕と、クラスで人気者の彼女が仲良くできるわけ無いし、できるだけ関わらないようにしながらここ数年は過ごしていた。でも大学入学をきっかけに彼女が上京することが決まってしまって、なにか伝えないといけないことがあるのだけれど、やっぱりどうしていいかわからない。彼女が東京に行ってしまう日が来た。駅へ向かうバスが行ってしまう…」みたいな、シチュエーションをものすごく限定する物語で歌詞を書くよりも、ただ「走り出すバスを追いかけて、僕は君に伝えたかった」と書けば大体のストーリーとその気持ちは伝わるじゃないですか。歌詞にそれぞれの物語を乗せることができるように「余白」を広めに取ることが、歌詞を「ふわっとした」表現で書くこと。ちなみに、秋元康がAKB48に詞を書くときは、この「ふわっとした」距離感がものすごく巧みに使われている。そういえば、前にもこんな記事を書いたなあ。

 Shiggy Jrも、男性があえて女性目線で詞を書くことによって、こういった「ふわっとした」回路が歌詞の働くようになっている。それが、彼らの音楽が非常にポップであり続ける要因なのかもしれないですね。

 

 

 前置き(1400字)はこのくらいにして。前回の予告にもあったように、今回は〈作詞・作曲をボーカル以外のメンバーが手掛けるロックバンド〉、僕は「分業体制のロックバンド」と呼んでいるのですが、そんな制作体制を取るロックバンドについて考えてみたいと思っているんですよ。今ひたすら話していたShiggy Jrや、「ロックバンド縛り」の新作を発表したUNISON SQUARE GARDEN、そして前回もちらっと話題に出てきた赤い公園など、近頃分業体制のロックバンドの活躍が目立ちますね。

 以前に、他媒体で彼らについて記事を書かせて頂きまして。その時の僕は結論として、「バンド全体を俯瞰するプロデューサーの視点を作詞・作曲に持ち込むことで、自作自演のロックバンドとは違う手触りの曲が生まれる」と書いたわけですが(詳しくは記事を)、いろいろ考えてみると、どうやらそんな単純なことじゃない、というか、もっと別に要素があるぞ、と。

 

 

 はい。と、いうことで取り出しましたのはまだ発売されて間もない赤い公園の新作「猛烈リトミック」です。前回も登場してもらいましたが、赤い公園はギターの津野米咲が作詞・作曲を務める分業体制を取るロックバンドのひとつです。

 そして先日、タワーレコード購入特典として赤い公園のインストア・ライブを見てきたんですよ。今まで赤い公園の音楽ばかりでパーソナルな部分を全く知らなかったので、初めて生で見て、ああこういう、バンドで、こういう女の子たちなんだ、と。いや、いい意味で、ですよ。

 そんな中で一番気になったのが、赤い公園「演奏隊と歌い手のバランス」です。

(一発ぶん殴ってどっかへ行ってしまう、通り魔のような一曲) 

 

 赤い公園というバンドは、基本的には90~ゼロ年代、日本のポップスに影響を受けたバンド、ということになっています。音楽を聴いていたらどうしても椎名林檎の顔がちらほら浮かんできてしまうくらい。そして今回のアルバムにプロデューサーとして亀田誠治師匠が参加している、というのがまた面白い。

 そして僕らが気にしないといけないのが、赤い公園ポップスから強い影響を受けながらも、演奏自体は轟音・ノイジーで、なかなか攻撃的なパフォーマンスをするロックバンドなんですよ。基本的には「アバンギャルドの仮面をかぶったポップスのバンド」という言葉で語られていますが、楽曲自体も、椎名林檎の顔が、と書きましたが、印象で語る限りはその暗い部分のイメージが非常に強い。まあボーカルの佐藤千明は椎名林檎はもちろんのこと、様々なJポップのスターの声を使い分けるとんでもないボーカルなのですが。

 話が脱線しますが、赤い公園のライブパフォーマンスで印象的だったのが、「ライブ最後の曲がアウトロに入ったら、ボーカル佐藤千明がステージから舞台袖に捌けてしまう」、というもので。観たことのある方はお気づきだと思いますが、これって東京事変のパフォーマンスなんですよ(東京事変以前に元ネタがあるのかもしれませんが)。ステージからボーカリスト椎名林檎がいなくなって、演奏隊だけが舞台に残って、ステージが終わる。そんなところにまで自分のルーツを出してしまうバンド、赤い公園です。

(超懐かしい映像が出てきた)

 

 話を戻します。

 そんな、一歩間違えばただの「激情型・アバンギャルドなロックバンドにカテゴライズされてしまいそうな赤い公園。そんな音楽のスタイルをただのアバンギャルド」ではなく「ポップス」としてギリギリ機能させているものが、バンドの「分業体制」、それも、作り手を歌い手から切り離すのと同時に、「歌い手が演奏隊から切り離される」仕組みにあると思うんです。

 

 

 先程リンクを張った記事で、僕は分業体制のロックバンドの特徴として、「バンド全体と作詞・作曲者の距離」に注目していたんですが、僕がここで見落としていたものが、曲の作り手と演奏隊との間に距離が生まれるように、「演奏隊と歌い手の間にも距離が生まれる」ということなんですよ。

 深く歪んだ音のギターやベースをかき鳴らし、轟音で空間を埋め、それでいて攻撃的なパフォーマンスをするロックバンドは、一歩間違えれば演奏者が自分の演奏に没入していくだけの、聴き手を拒むような閉鎖的なロックバンドになってしまう。ライブハウスで適当にブッキングされた無名のロックバンドを4つ5つ見れば、ひとつくらいこういうバンドがいますよね。ゆらゆら帝国に影響受けてそうな人たち。ギターにディストーションかけてガンガン弾きながらアンプから飛び降りたりするんだけど、観客が全くついてこないやつ(影響元をディスるつもりは一切ない)。この手のバンドって目茶苦茶音がでかいくせに観てると眠くなるから不思議だよね。

 

 ただここに、バンドの一部でありながら演奏隊とは一線を引く「ボーカリスト」という装置をひとつ置いたらどうなるのか、という話なんですよ。すると、演奏に没入してしまう楽器隊とその様子を見守るしかない観客、その両者を繋ぎ、観客が「演奏に入り込む」ための入り口が生まれるんです。その役割は、閉鎖的・攻撃的な演奏の外側にいながらも音楽の一部である、というボーカリスト(しかも単品ボーカリスト)でないと受け持つことができない

 そういった「演奏を俯瞰する」役割を置くことで、赤い公園「純粋なアバンギャルド」の回路を巧みに避け、あくまでも「Jポップインスパイア」のアバンギャルドであり続けられるのです。

 

 

 とまあ、こんなことをつらつら考えてみたんですが、そういえば一年くらい前に同じようなことを書いていました

 一年前の僕は、この歌い手と演奏隊の関係を「平面的」「立体的」という言葉で書いていたんですが、その言葉で今回の記事をまとめるなら、平面的になりがちなバンドという編成の外部にボーカリストという存在を置くことで、バンドの形体を立体化させている、といったところでしょうか。抽象的な言葉良くない。

 

 前回の予告ではチームしゃちほこが云々とか書いていたのですが、こっちが長くなりすぎたのでまた別の機会にしますね。その時は、「閉鎖的」なバンドの世界と「自分語り」など、まだまだ語りきれないBase Ball Bear『二十九歳』について触れながらまたたくさん考えてみる予定です。

 相当単発単発な内容でしたが、次回はまとまった文章になる予定です、はい。