弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

「自分語り」、「閉塞感」とロックバンド【番外編】 ――Base Ball Bear『二十九歳』再び

 前回は「閉鎖的」という要素に注目しながら赤い公園のパフォーマンス体制を見てみたわけなんですが、こういった「閉鎖的」という言葉は、基本的にはパフォーマンスでは無く、その楽曲そのものに対して使われる言葉ですよね。例えば、深夜ひとりの部屋で鬱々とするスガシカオの楽曲は、音楽的にも、楽曲の内容を見ても「閉鎖的」な曲ですよね。

二十九歳(初回限定盤)(DVD付)

二十九歳(初回限定盤)(DVD付)

 

(弊ブログ、二度目の登場) 

 

 こういった楽曲が「閉鎖的かそうでないか」の違いは、様々な要素があると思いますが、一番の要素として楽曲の中に「他者」がいるか、そしてその他者との「対話」は生まれているか、ということにあると思うんですよ。たとえばスガシカオの楽曲でも、自分になにかひとことバーンとぶつけて鬱々とした現状を打破してしまう「他者」の存在があれば、その閉塞感はある程度は打破できるかもしれない(まあ、その存在がいないことこそがスガシカオの楽曲の特徴であるわけですが)(そしてそのスタイルもここ数年で変わりつつあるのですが)。

 川谷絵音ゲスの極み乙女。で歌っている曲は、その多くが「自分では無い存在(=他者)にぶっ潰される」ことが物語のスタートになっていますよね(「ノーマルアタマ」とか)。「キラーボール」なんて、「ライブで楽しそうに踊ってるうちはひとつになった気になれるかもしれないけど、ぼくらは結局わかりあえない」「他者は結局のところ他者」っていう相当エグいテーマの曲ですよ。斉藤和義の「やさしくなりたい」や「月光」では、ひとつの悩みにドはまりしてぐるぐる同じところを永遠にまわっていたところ(閉鎖的な世界)に、どこからともなく女性(他者)が現れて、悩みをバーンと蹴り飛ばして帰っていく(対話)

 そんな、「自分では無い存在」といかに「対話」をしながら世界を広げていくか、というのが「閉鎖的なもの」の特徴としてあると思うんです。閉鎖的ということは、どうにかしてその閉じた世界に聴き手を引き込むか、ということが重要ですから。そして、今までさんざん語っているような「分業体制のロックバンド」は、こういった「対話」や「他者」の問題を、「自分では無い人間が曲を歌う」という、他者を内在化させる回路を通すことによって巧みに回避する訳です。

 

 そもそも、個人の悩みや葛藤、コンプレックスをテーマにしたよくありそうな曲なんて、言ってしまえば音楽や歌詞を通して一種の自慰・自傷行為を見せるようなものですからねそれが「楽曲」というフィルターを通すことによって「何故だか」ある程度は許されてしまう、というだけで

 

ゲスの極み乙女。川谷絵音は「怒り」から曲を書く作家ですよね) 

 

 見過ごされがちですが、ロックバンドは相当な頻度で「閉塞的」な「自分語り」が行われています。もちろんそれが悪いという訳では無く、そんなミニマムな世界になりがちな自分語りを、どうやって他人に伝わり、共有できるようにするのか、という点において楽曲の作り手の腕が重要になってくるのですが。アイドルソングが大人気になった背景には、こういうロックバンドの「自分語り」にみんなうんざりしているんじゃないかと思っているんですが、どうですかね。蓋を開けたらやっすいメランコリーとステレオタイプの反体制ばっかりですよ。

 ちなみに、この「自分語り」を回避する手法が滅茶苦茶上手なのが、言うまでも無くクリープハイプ尾崎世界観ですね。下手すれば狭い世界で駄々をこねているだけになってしまうような言葉を、物語に落とし込んだり、女性を主人公にしたりといろいろな手法を取りながら、誰もが入り込みやすいように造り替えていく。

 

(ベストアルバムで揉めたせいで、動画がいろいろややこしいことになってる) 

 

 そんな前置きをはさみつつ、取り出しましたのはBase Ball Bear『二十九歳』です。
 以前にもこのブログで『二十九歳』についてはたくさん書かせて頂きました。その記事リンク付きのツイートが小出祐介(リスペクトしているけど敬称略)のアルバム感想にまとめられたようで、割とたくさんの人に読んでもらったようです。そこで僕は『二十九歳』を、「これまでのギターロックの実験の結果でありながらパブリックイメージを上書きした」アルバムとして語ったわけですが、このアルバムにはそれ以上にどうも語り辛い部分が多くって

 まずはじめに言っておきたいのが、僕は『二十九歳』は傑作だと思っています。傑作だと思っているのですが、僕がもうBBBを好き過ぎて、丁度いい距離感が置けないんですよね。小出祐介がBBBで歌うものの考え方や感じ方に、僕は恐らく相当寄ってしまっている。アルバムに収録された「Ghost Town」や「魔王」などで語られる、相当ミニマムかつシリアスな自分語りも、ある程度は自分(僕)に身近なものとして受け入れられてしまうんです。十代の頃からずっと聴いていて、恐らく自分のメンタル形成にそこそこの影響を及ぼしているバンドなだけに、この距離感の取りかたが本当に掴み切れない。そんな、「自分にもある程度身に覚えのある」問題とひたすら戦うアルバムとして、『二十九歳』は本当に、自分にとって大きな意味を持つアルバムなんですよ。

 だからこそ、だからこそ、この「個人のミニマムな世界を追求した自分語り」のアルバムである『二十九歳』に、客観的な評価を下せないんです。だって、小出祐介の問題と僕の問題はギリギリ繋がっていたかもしれませんが、その問題が万人に共通するものであるとは言えませんから。『二十九歳』で歌われる「自分」の問題は、非常に個人的でミニマムな問題です。だから、そこで歌われている個人的な問題を全く理解できない人は恐らくこの世界にたくさんいる。だからこそ、僕は『二十九歳』を、十人いたら十人が感動するアルバムとして単純に評価することができない。わかり辛いなら、映画『桐島、部活やめるってよ』(この映画の話するの何度目だ)の観賞直後に、僕が血の涙を流しながら劇場を後にする横で、「よくわかんなかったー」っていう人がいる絵を想像してください

 

(『二十九歳』のなかでもまだポピュラリティーのありそうなリード曲)

 

 そう言ってしまうと、「お前が作り手と共鳴しただけじゃねえか」っていうことになってしまうので、きちんともう少し『二十九歳』について語っておきます。

 このアルバムがあちこちで「正気を保つことで生まれた傑作」と語られている理由は、恐らくこのアルバムにおいて一貫するテーマとして「自分の中にいる他者」、つまり「自分を常に監視し、批判するもうひとりの自分」との対話が行われているからです。もう少しポピュラーな言い方をすると、「自意識」というやつです。

 それを行うのが自分であっても、自分を俯瞰し、批判し続けるのは本当に辛い自分のいいところを知っているのも自分ですが、自分の嫌なところ、ダメなところを知り尽し、自分を糾弾し続けるのも自分ですのプロセスをきちんと踏むと、必ず自己否定的になる。それと戦うことが、「正気を保つ」ことです。その、「自己否定」と「自己批判」がとにかくえげつないくらいに徹底している。『二十九歳』は、ありとあらゆる場面において滅茶苦茶に「自己批判」を行いながら、最終的には「自己救済」へ至るアルバムなんですよ。

 小出祐介が『二十九歳』リリース直後にファンとツイッターで交流しながら「みんながこのアルバムをどう聴いたのか、感想を知りたい」と書いていたのですが、それは恐らく、こういった「自己批判」のメカニズムが原因だと思います。結局のところ、自己批判」はテニスやキャッチボールで言う「壁打ち」と同じで、そこに自分以外の人間が出てこない。自分自身とひたすら対話をするわけですだからこそ、この壁打ち、つまり自分自身との対話がきちんと正常に行われているのか、自分の問題はあなたの問題になりうるのか、そして自分の答えはあなたの答えになりうるのか、自分では無い第三者の目で確認してもらわないといけない。だからこそ、小出祐介は『二十九歳』の「自己批判」と「自己救済」に、それを判断、「正しい」とジャッジする第三者の視点を求めたわけです。

 そもそも、僕がここにこうやって誰に出された訳でもない問題を見つけて勝手に解決し、誰に求められている訳でもない文書を吐き出していること自体が自慰行為みたいなものですし、ここでやっている「自己批判」と「自己解決」のプロセスを誰かに見てもらいながら、「それ、面白いんじゃねえの?」とか、「なるほど、わかるわかる!」と言って、答え合わせをして欲しいわけですよ。

 まあ、僕の話なんてどうでもいい。

 

 

 以下、蛇足。 

 

(この一曲に騙されるな、チームしゃちほこの行き先は常に斜め上だ

 この『二十九歳』の小出祐介はかなり「自分語り」の色が濃いソングライターだと思います。しかし、注目しないといけないのが彼は度々アイドルグループに楽曲提供しているんですよね。

 東京女子流の「Partition Love」は完全にリスナー目線の「女子流っぽさ」を踏襲した曲。チームしゃちほこに提供した「colors」は、編曲をBBBサイドの人間(釣俊輔)がやったせいもあって、相当バンドっぽい作りになっている。提供を依頼される時には「王道の曲をお願いします」と言われたようですが、この曲が「王道」である理由は、これまでガチガチのEDMでやりたい放題やっていたチームしゃちほこの楽曲の中では相当さっぱりとしていて聴きやすい部類の曲である、ということもありますが、一人称が「僕」の語りが使われている、ということもあるでしょう。この「僕」はもちろん作詞者のことではなく、AKB48が楽曲でよく使う、「ファン目線の歌詞」というアレです。

 恐らく、小出祐介ほど切実な「自分語り」と、別の人間になって曲を書く作家性を持ち合わせているソングライターは多くないと思うんですよね。それも恐らく、『二十九歳』で追求された、自分の感情を普遍的なものに「させようとする」回路がきちんと働いているからなんですよね。インタビューでも「自分の本心から離れた」曲を書く、ということが多々語られていて、それも「自分語り」とは間逆でありながら、彼の作家体質のひとつなのかなあ、とも思うわけです。

 

 

 番外編のここも含めて相当たくさん考えたこのシリーズですが、最後に「小出祐介Works」中で僕が一番好きな、作詞担当(作曲は岡村靖幸)「愛はおしゃれじゃない」を聴いてお別れにしましょう。

(この曲の話も前にしたことがある気がする)