弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

これ、やっぱりあなたにあげるね! ――今月のUstream『盗まれた遺書』前口上

 

盗まれた遺書

盗まれた遺書

 

 

 余計なお世話だとは思うが、貨幣経済っていう言葉があってだな。まあ言ってしまえば、120円のジュースを買うために120円財布から払うっていう、あれだよ。これは言ってしまえば、「このジュースを120円とします!」っていうルールの上でようやく成り立っているわけだ。そして貨幣っていうものが発明されるまで他の人が持っているものを欲しくなったら「これをあげるからそれをちょうだいな」っていう交渉があちこちで行われていたんだと。「それとこれとじゃあ釣り合いませんよ」、「じゃあこれもつけるから」、「それならいいだろう、ほら、じゃあそっちから先によこしな」みたいな感じで物のやりとりを行っていた。これがいわゆる物々交換っていうやつだ。

 鋼の錬金術師で「等価交換」っていう言葉が有名になったが、この世の中で起きている物流も、基本的には等価交換だ。まあ言ってしまえば、交換された物と物が「等価だった」なんてことは、「等価だから交換できた」んじゃなくて「交換できたから等価だった」という論理展開の方が正しいらしいがな。東京の郊外で両親に養ってもらっているニートと、砂漠で一週間放浪した旅人、ふたりの立場で考えてみると、ペットボトル一本の水の価値は全く変わってくるだろう。前者は100円でさえも出し渋るだろうが、後者は自分の持ち物全てと引き換えてでもその水を欲しがるだろう。彼にとっては、持っている荷物全てとペットボトル一本の水が〈等価〉だからだ。

 

  まあこんなアホみたいな書き方はこのくらいにして。先日、たまたま『借りの哲学』という本に目を通すことがありました。曰く、この世界で生きている限り、誰かしらから受ける恩や義理などの〈借り〉からは絶対に逃れられないそうです。その理論を固めたうえで本書は、上の世代からの〈借り〉をのちの世代に返していく、という発想に進んでいくのですが、それ以降は本書を読んでください。

 でね、誰かから何かをもらったりすると、受けた側は必ず精神的な〈借り〉、つまり、負い目だとか義理だとかを感じてしまう訳で、その〈借り〉は本当にひょんなことから簡単に生まれてしまう訳だけど、そんな〈借り〉による永遠のループから我々を自由にするものが文明によって発明されるわけです。それが、〈物々交換〉から発展する〈貨幣〉なわけです。例えば、○○さんから物を譲り受ける、と言うときに、お金を払って〈買う〉、という形式を取ってしまえば、そこで〈借り〉が発生することは無い。そこで起きていることが厳密な等価交換でなくても、譲られた側は「自分はお金を払ったから」という精神的逃げ道ができる。そうして、両者に発生する〈借り〉をチャラにする。これを発展させたのが、商店という仕組みですよね。

 ここではわかりやすい例が手元にあったので〈借り〉と言う言葉を使っていますが、ここで何が重要かと言うと、貨幣経済に基づいた物の交換では本当に純粋な〈物の移動〉だけが行われていて、そこにはここでいう〈借り〉のようなノイズが存在することは無いんです。購買とは、とにかく純粋に物を自分のものにする、ということなんです。しかし、物を金銭といういわば〈エスケープゾーン〉無しで人の手から人の手に移動させようとすると、そこではどうしてもノイズが発生してしまうんです。金銭との交換では無く手に入れたものは、滅多なことが無い限り簡単に自分の物にはなってくれない。あの人が譲ってくれた旧世代のノートパソコンはいつまでたってもあの人から譲られたものだし、卒業しちゃったせいで大好きなあの人に返せなかったCDが目に入るといつもあの人のことを思い出しちゃうし。つまり、そこに金銭などの交換が存在せずに贈与されてしまったものは、常に何らかの〈ノイズ〉が付きまとうことになるんです。

借りの哲学 (atプラス叢書06)

借りの哲学 (atプラス叢書06)

 

 

 と、いうことで前置きが長くなりましたが今月(6月の後半では無く7月頭ですが)のUstreamいいんちょと愉快な鼎談』、お題は仙田学『盗まれた遺書』です。短編集ですが、この場では表題作の話だけで済ませますね。
 主人公は、万引きの常習犯、みつる。みつるは万引きで生きていると言っても過言では無く、盗んだものを自分の部屋にためておきながら生活をしている。決して盗んだものを換金したりすることは無い。みつるがいつものように万引きをしていたら、その現場を盗撮した写真を売っている女性、奈緒に押さえられてしまう。みつるは奈緒が万引きのことを警察に通報しないかわりに盗撮を手伝わせるようになる。ある日、奈緒は別の誰かから譲り受けた誰かが外国の言葉で書いた遺書の読解を依頼され、同時に遺書を譲り受ける。みつるは遺書を解読する道中で喫茶店の店長であるみゆきと出会い、云々。

 まず、タイトルにもあるように「遺書」、つまり本来は〈誰か〉が〈誰か〉に向けて書かれているはずの文章が、ハナから〈書き手〉を失ってしまっていることに、この小説の〈異常〉が存在している訳です。

 

 

 それでね、うろ覚えなんだけどね、〈行為遂行論〉っていう話があってね。例えば「AさんがBさんに本をあげる」というワンフレーズについて考えたときに、これが成立するためにはまずAさんとBさんがいることが先決で、そしてもうひとつ、その目的が達成可能な〈場所〉など〈前提条件〉が必要、っていう話です。つまり、あげる予定の本が存在してないといけないし、そもそもAさんとBさんの間で本をやり取りできる仕組みが存在しないといけない。手渡しとか、郵送とかね。

 つまり、「遺書」という行為が達成されるためには、まず「遺書」を書いた主体、そして「遺書」を読むことが想定されている人、つまり客体がいて、そしてその人に正しく遺書が渡る。その3つのポイントが成立してようやく、「遺書」が遺書として成立することになる。

 

 「盗まれた遺書」は〈行為遂行論〉と、最初に書いた〈贈与〉の話なんですよ。

 主人公のみつるは、行為遂行論で言うところの〈主体が存在しない客体〉。物を売る、という主体を無視して、客体であるみつるが勝手に物を持って帰ってきてしまうわけですから。そして、盗撮を行う奈緒は、みつるとは正反対の〈客体が存在しない主体〉。彼女は盗撮写真を場所に提供するだけで、それを受け取る相手とその作用について知る由もない。そして面白いのが、みつるは〈主体と客体が同時に存在する(交換ではない)きちんと関係が成立している贈与〉、つまり「それ、あげるから持って行きなよ」的な関係を基本的に避けるんですよね。これは、喫茶店マスターのみゆきが絡んでくるのですが、本編にがっつり触れることになるのでここではスルーで。そしてもう一つ、主体と客体を単純明快な理論で結びつける貨幣を持とうとしない。貨幣を使ってしまうと行為遂行論、つまり物の〈贈与〉ではなく〈交換〉が成立してしまうからですね。そして、貨幣とは〈交換〉を成立させるための記号でしかないですから。

 そして注目すべきは、みつるは万引きという形を取って勝手に行われてしまった〈贈与〉によって物に付加されてしまった〈ノイズ〉を意識的に引き受けるんですね。「物を引き受ける」なんて表現もありましたね。

 そんな貨幣を用いないで行われる物のやり取りによって、そこで物以外の要素、先ほど〈借り〉と言う言葉で説明したようなものが多いに動くことになる。貨幣でも何でも、〈交換〉という形式を取らない限り、純粋な物の贈与は達成できず、物には何かしらのノイズ、言ってしまえば〈意味〉が乗ってしまうことになる。そして、そんな物のやり取りの中でいろいろな〈意味〉が付加されながら人の手から人の手へ回っていくのが作品のタイトルにもなっている「遺書」なんですね。そして、人の手から人の手へ回っていく中で、遺書の内容が少しずつ改変されていってしまう事も作品中で示唆される。

 

 『借りの哲学』でも指摘されていましたが、貨幣経済っていうのはいわば、流通して自分の手元に来る物に乗ってしまう意味やストーリーなど、それらノイズから自分を守るための精神的な逃げ道なんですよね。そうでないとすると、どこかで生まれたその物を現在自分が持っている、という責任感と人間は戦わないといけなくなる。そういった流通と贈与についての言及を行った作品として読んでみても面白いと思うんですけど、いかがですかね。

 

 

 と、いうことでUstreamです。

 先月は急用にて延期されて7月の頭になってしまいましたが、今週末7月6日の20時から、Ustreamいいんちょと愉快な鼎談』の放送です。こんなにも身の回りの話に還元できない本が題材ですが、はたして90分持つのでしょうか。まさか、この本を選んでしまったメンバーへの糾弾会へ発展してしまうのか。その真相は君の目で確かめろ。

(URL:http://www.ustream.tv/channel/atsushi-s-broadcasting