弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


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今だからこその岡村靖幸 ――バブル世代の「どぉなっちゃってんだよ」、さとり世代の「ビバナミダ」

 

 

 

 ポップスに限らず、世間の至る所に〈あるがまま〉原理主義が広がって久しい。自分らしく生きていきたいという歌詞が愛され、書店の平積みには無理をせず生きていくためのハウツー本が並べられている。誰もが自分らしく無理をせず、頑張らずに生きていきたい。思い切って、一億総あるがまま社会、と言い切ってしまいたいくらいだ。しかしこういった〈あるがまま〉原理主義の裏で、恐らく周りの人に受け入れてもらえないであろうありのままの自分をひた隠しにし、無理をして別の自分を作り生きている人がいるのも事実であり、それ以上にあるがままで生きている人々のシワ寄せを受けている人ももしかしたらどこかでこっそりと生きているかもしれない。〈あるがまま〉原理主義は、飾らない本来の自分を見せても誰からも愛してもらえるだろうと思っている人のためにある言説なのだと僕は思っている。それに比べて、しっかり化粧をして小奇麗な服に身を包み、他人もしくは自分のために自らをばっちり整えた上で「ナチュラル系」を称する女性向けファッション誌の方がよっぽど好感が持てる。理想と現実のギャップに悩む人々に、誰もが、今のままでいいじゃないか、と言う違う違う、そうじゃない。あるがままの君が好きといくら言われても、あるがままの自分を、自分自身が好きになれないことが問題なのだ。このご時世、ナチュラルな自分が好きになれない人はどうやって生きていけばいい。
 今から20年以上前に生み出された岡村靖幸の楽曲に僕が惹かれたのは、そこには一切の現状肯定が存在していなかったからかもしれない。彼の楽曲で描かれる登場人物たちは、誰もが理想と現実のギャップに身をよじり、それでも理想とする姿に自分を近づけるために虚勢を張ることを厭わなかった。

ビバナミダ(スペース☆ダンディ盤)(DVD付)

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 岡村靖幸がデビューして音楽活動を活発に行なっていた時期、1980年代後半から91年にかけて、日本はバブル時代と呼ばれる、モノと理想を追い求めて誰もが目をギラつかせている時代であった。このバブル世代の女性が男性に求めたのが、かの悪名高き〈三高〉である。当時の男性の構成要素で重要だったのは〈高学歴〉〈高収入〉〈高身長〉の三点、つまりステータスがものを言う時代であった。〈三高〉は女性から男性に向けられた一種のハードルであったが、これを男性目線で語り直すなら、ステータスの足りていない男性は舞台に上がることすることすらできない時代であったとも言える。女性が男性に理不尽な要求をすることは今にはじまったことではないが、当時の要求は現代ほどの多様性はなく、皆が同じような男性の理想を追っていた時代であった。〈男性かくあるべし〉という完全な理想像が存在し、全員が同じ場所へ向かっていくのである。
 そんな世界には当然、理想の姿を手にすることができない人間もいた。いや、明確な理想の姿を目の当たりにしていながらそうなれない男性がほとんどだったのではないかと思う。女性は全員が同じような理想の男性を追い求め、現在のようにありのままの自分を肯定してくれる風潮も存在しない。時は美男美女の俳優・女優ばかりがキャスティングされるトレンディ・ドラマが次々と放送されている時代だ。男性は誰もが、手に入らないかもしれない〈三高〉を追い求めるしか「男女七人夏物語」に自らの名を連ねる方法が無かったのである。そんな、人々が同じ理想を見ていた時代に岡村靖幸が人気を博したのは、理想の姿をどうしても手にすることのできない男性の姿をありのまま表現したからだろう。楽曲の登場人物たちは、こうなりたいのになれない、そんな理想と現実のギャップに頭を抱え続け、そこに耐えられなくなった瞬間に「どぉなっちゃってんだよ」と歌いだすのである。「どぉなっちゃってんだよ、人生頑張ってんだよ」と大声を出しながら、あのダンスを踊るのだ
 しかし、岡村靖幸の楽曲が幾多のポップスと決定的に異なっているのは、彼がバブル期に生きてしまった男性の苦悩をただ歌っている点ではない。「どぉなっちゃってんだよ」と歌う男は、未熟な自分を許そうとはしないし、その怒りを時代に向けることもない。最後には「ベランダ立って胸を張」るのである。岡村靖幸は、理想と現実のギャップにさらされながらそれでも虚勢を張って生きることを肯定してみせたのだ。彼の楽曲は、理想の姿を手にすることはできないけど手にしようとする、あたかも手にしたかのように無理して振舞っている男たちの楽曲だった。



 バブル崩壊以降、90年代が進んでいくにつれて岡村靖幸が以前ほど聴かれなくなっていったのは、彼が音楽シーンからフェードアウトしたこともあるが、〈男性かくあるべし〉という理想像が以前ほど語られなくなったことも少なからず影響しているだろう。もちろん、理想像は未だ健在だと認めざるをえない現状もあるが、その一方で理想像から外れてしまった男性の姿も同じく一般化していったのだ。地下鉄サリン事件阪神淡路大震災の起きた1995年、しがない勤め人の姿を歌ったH Jungle with tWOW WAR TONIGHT」が大ヒットした。大澤真幸は『不可能性の時代』において、高度経済成長期、バブル景気以降の「虚構の時代」は1995年で終了したとしているが、バブル崩壊以降、景気回復の兆しが一向に見えない1995年に「WOW WAR TONIGHT」が歌ったのは、理想が崩壊したあとの日本の姿だった。それから20年近く経った現在の日本には誰もが思い描くような理想の姿は存在せず、それぞれがそれぞれの幸せを追い求めた結果到達したのが、何も持っていない自分自身を肯定してくれる〈あるがまま〉原理主義の支配するディストピア
 理想と現実のギャップに頭を悩ます男性の姿は、今や取り立てて語る必要のないものになってしまった。誰もが、あるかどうかもわからない理想の自分を求めて右往左往する時代である。〈男のほうが女よりも女々しい〉という言説は言い得て妙だ。そういった男らしくなろうにもなれない男性の姿の一般化は、〈靖幸ちゃん的〉な伊達男の姿をポップスから消し去ることになる。無理をすることが忌み嫌われる時代だ。岡村靖幸の描く、無謀であっても常に理想の自分の姿を追い求める男性は、現代の男性の姿にはそぐわなかった。現在は理想を手にすることのできない人々に対して、それでええんやで、それって素敵やん、という時代である

 そんな中、昨年、2013年の流行語に「さとり世代」という言葉がノミネートされた。出自には様々な説があるが、近年の若い人々が欲を持たなくなったことを揶揄して用いられる言葉である。僕自身も1990年生まれであるので、そんな人間がいわゆる〈昨今の若者〉論を語るのにはある種の難しさが付きまとってしまうが、アンケートによると、最近の若者、それも20歳前後の若者はモノや人間関係に対する欲求が無くなってきている、という結果が出ているようだ。物心ついた時から現在に至るまで不景気だ不景気だと言われて育ち、〈失われた10年〉と言われていた時代はいつの間にか〈失われた20年〉にランクアップしている。僕たちは失われた時代に生き、逆に失われていない時代に何が失われていなかったのかすら知らない世代である。さとり世代とはそんな不景気で将来の希望が持てない時代に育ち、たくさんモノを持つことも求めず、休日は金のかからない自宅周辺で過ごし、恋愛は面倒だから同性の友達と遊んでいればいいじゃん、といった発想を持つ世代を指している。「ゆとり世代」の次の世代を指す、と言われるなど解釈は様々だが、僕は「ゆとり世代」と「さとり世代」はほとんど同じ世代を指していると思っている。
 多くの方は気づいていると思うが、現在のさとり世代は多くの点でバブル世代とは正反対だ。彼らは所有を求めず、ステータスを求めず、人間関係、言ってしまえば異性を求めない。車の助手席に女の子を載せてスキーやサーフィンに出かけていくバブル期の男性と比較すると、さとり世代の人々は、ひょっとすると肩に小鳥でもとまるのではないか、といった印象がある。エネルギッシュなバブル世代に対して、さとり世代がさとりたる所以は、彼らがひたすら省エネな生活をしていることに由来している。リアルタイムを知らない僕がバブル世代の人間に対して酷い偏見を抱いているのかもしれないが、それを差し引いても二十数年で若者のメンタリティは、欲求の世代から無理をしない世代を経て、欲求しない世代へとなかなか大胆に変化してしまった。

 

 


 そんなエネルギーが空回りするのではなくエネルギーを使わないことがデフォルトとされる時代に、岡村靖幸が新曲を発表した。昨年10月にリリースされたそのタイトルは「ビバナミダ」、エレクトロサウンドが印象的な楽曲であるが、「我らにとって人生は」のメロディなど、岡村節は健在の恐らく多くのファンが求めていた場所のど真ん中をいくシングルである。
 先述したように、バブル世代を象徴するような〈靖幸ちゃん的〉な男性の姿は今や日本から消えてしまった。さとり世代の僕たちは、毎週末ディスコに足を運んで好みの女の子を見つけるや否やホイホイついていって一曲踊るようなメンタリティは持ち合わせていない。ファミコンやって、ディスコに行って、知らない女の子とレンタルのビデオ見てる」のは名曲「カルアミルク」の主人公だが、僕たちは、パズドラやって、和民に行って、誰もいないひとりの家でニコ動見てる世代である。岡村靖幸は「こんなんでいいのか」と自問自答するが、さとり世代はその問いに、だってしょうがないじゃん、と答えるだろう。恐らく僕もそう答えてしまう。
 ここで正攻法を用いるなら、青春時代に岡村靖幸を聴いていたバブル世代のファンへ向けた楽曲をリリースするだろう。ミュージシャンがファンと一緒に歳をとり、彼らに寄り添うように楽曲を作り続けることは珍しいことでは無い。普通であったら今までに岡村靖幸を聴いてない若い世代に向けた楽曲をリリースするよりも、〈靖幸ちゃん的〉な魂を共有している同世代へ向けた楽曲を作る道を選ぶだろう。しかし、岡村靖幸はそんなセオリー通りの楽曲リリースを行おうとしない。デビューから20年以上の時が経った今になっても、岡村靖幸はバブル世代へ向けて行ったのと同じように、現在の若い人々に楽曲を届けようとする
 「ビバナミダ」は、そのタイトルの通り〈ナミダ、万歳!〉というメッセージソングである。泣いていいじゃん、と繰り返し語りかける「ビバナミダ」は、うだつの上がらない自分を鼓舞するというよりも、省エネの生き方を刷り込まれた世代に感情の開放を促している楽曲である。悩んでるなら言えばいいじゃん、人生なんて軽く考えちゃえばいいじゃん、泣いちゃえばいいじゃん。涅槃の域に達して、始まってもいない人生を理解した顔をして、達観しているさとり世代に、わかったような顔するんじゃない、と一喝するのだ。
 かつては男性の苦悩に寄り添っていた岡村靖幸は、現代の若者に対しては強くなれと語り掛ける。その二つの姿は異なったように見えるが、そこの根底に存在するものは同じである。バブル時代から時を経てなお2013年に岡村靖幸が歌うのは、20年前と何ら変わりはない、理想の姿を目指して自分自身に対して繰り返し行われる、これでいいのか、という普遍的な自問自答であった。時代が変わっても、岡村靖幸は大人になる一歩手前の人々のために歌う。これでいいんだ、と安い自己肯定をしているさとり世代には、バブル世代とはまた異なったメッセージを語りかける必要があったのだ。「ビバナミダ」は、さとり開く前に全力出して来いよ、という新しい時代の若者に向けたメッセージソングであった。


 世界に登場する小道具や登場人物のイメージから、岡村靖幸の楽曲は一昔前のものだと思われがちである。しかし楽曲で行われる自問自答は、リアルタイムに聴かれていた時代と同じくらいに現代の僕たちにも十分にリアルで、身に覚えがあるものとして行われるはずだ。

 「こんなんでいいのか」。
 …いいわけ無いんだよなあ。

 いつの時代も、岡村靖幸は自分を肯定せず、大いなる何かに向かって問い続ける。それは恐らく、いくら時が経って僕らがいい大人になり、世代が新しく入れ替わっても、誰もが常に行わなければいけない自問自答なのだろう。

 うん、それでは皆さんご一緒に。ビバ、ナミダ。