弱者の理論

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愛とエゴとの素敵な関係 ――岡村靖幸w小出祐介『愛はおしゃれじゃない』

 

愛はおしゃれじゃない

愛はおしゃれじゃない

 

  「ラブレターを書くときは自分が相手のことをどれだけ好きかでは無く、相手が自分に会いたくて会いたくてしかたがなくなるように書け」という言葉を聞いたことがある。そのしぐさのひとつひとつが素敵です、特に思いっ切り笑ったときに出てくる歯茎がその歯茎が悩ましい、と書きたくなるところを、あなたのことを考えていると毎晩眠れなくなってしまって翌日の朝は大変です、と書く。翌日はずっとモンスターエナジーをガブ飲みしながら仕事をしています、と書く。相手の魅力をたくさん言葉を積み上げて書いていくんじゃなくって、自分のことを少しでも考えてもらおうとするという姿勢が大切、ということだと勝手に解釈しているが、その本質を上手に抜き取れるなら僕は今頃ラブレターマスターになっているはずだと思う。そういえば京都から能登半島に飛ばされたどこぞの大学院生が習得する「恋文の技術」は、「恋文を書こうとしない」ことが極意だったような気がする。最終的に、恋文の代筆業者こと守田くんは、とても素敵なラブレターを書くことになる。
  それなのにまあ僕ときたら、いろいろ大切なもの置き去りにしても、やっぱり君の話がしたくてしたくてしょうがない。どんな時だって君君君君。もう、相手が何を考えているかなんてもう関係無いよ。君の指先が素敵です。君と今週末、吉祥寺に行きたいです。君にジュースを買ってあげる。恥ずかしげも無く、よくもまあそんなテンションになれるもんだ。我ながら。

 

恋文の技術 (ポプラ文庫)

恋文の技術 (ポプラ文庫)

 

能登半島で恋文を書く大学院生の活躍はこちらからどうぞ)

 

 自分が好きになってしまった相手は自分の鏡のようなものだとか、恋愛をしているときは自分の嫌なところが一番よく出てくるんだとは言い得て妙で、僕が目を血走らせて君が君がと言うとき、きっと心の裏側では愛してくれ、隙あらば愛してくれと駄々をこねているのかもしれない。昨年完結した浅野いにおの作品『おやすみプンプン』では主人公のプンプン少年が初デートの時に相手の女の子に優しくしすぎたせいで帰り際に「優しさが勝手だ」と言われることになるのだが、悲しいことにこれが相手のことを考えすぎた男の終着点なのである。優しくして何が悪いんだ、君が喜ぶと思ったんだ、僕は君のことをこんなにも、こんなにも思ってやっているんだ。そんなことを言い返しながら、やっぱり僕は馬鹿のひとつ覚え、もしくはそれしか芸を覚えていないチンパンジーのように君が君がと繰り返している。みんなも同じような苦い経験があるでしょう。そうでしょう、そうでしょう。ああそうだ、僕もある。

 〈相手を満足させる / 喜ばせる〉行為と〈自分を満足させるために相手にする〉行為は決定的に異なっているのだ。ちなみに、僕はまだこの違いに納得できておらず、死ぬまで考えていこうと思っている。ともかくプンプンは、女の子に向けていたはずの優しさが一周回って自分のためのものであることを指摘され、自身の歪んだ自己愛と、正しく愛されたことが無いゆえに、相手に好意を示す方法が間違えてしまっていることが初デートにして白日の下に晒されるのである。じゃあ、正しい愛し方ってなんだ。君のために僕はなにをやったらいいんだよ。これも、あれもダメならなにが大丈夫なんだよ。ふざけるんじゃない

 

おやすみプンプン 1 (ヤングサンデーコミックス)

おやすみプンプン 1 (ヤングサンデーコミックス)

 

 

 そういえば高校生の頃の僕は、最後の修学旅行で「自分の好きな女の子が自分のことを好きになってくれるなんて万にひとつくらいの奇跡だよなー」とか言ったわけだけど、あれも今になって思えばプンプン的な、とんでもなくエゴイスティックな言葉だったような気がする。こんなにも愛しているんだから愛してくれ、という理論を高校生にして僕は会得していたのである。来世ではミジンコに生まれ変わります。数億年の歳月を越えてようやく多少はマシな人間に生まれ変わります。

 

 話はようやく本題に入る。先週リリースされた岡村靖幸小出祐介『愛はおしゃれじゃない』は、暴走する僕らのエゴにささげられたアンセムと言ってしまっていいだろう。表題曲「愛はおしゃれじゃない」と2曲目「ラブビデオ」を通して、どこを切り取っても、君に、君を、君が。実際に数えてみたら2曲合計9分33秒通して32回も「君」が登場する。1秒あたりに直してから計算すると、3.4君/min(サンテンヨン・キミ・パー・ミニット)で駆け抜ける9分半、20秒に1度、「君」と言っている計算である。Mr.Childrenの名曲「君が好き」が、君に何をしてあげられるのか一通り考えた後、結局僕はただ君が好きなんだ、とエゴについて清濁併せ呑む一曲だったが、こっちは悲しいほどにエゴ丸出しだ。「君」という言葉が繰り返し繰り返し登場するのに、この物語の中には実態を持った「君」が一切登場しないのだ。そんな「君」がいない世界で君が君がと繰り返すほど、その受け手の存在しない言葉は俺が俺がというエゴイスティックな自己言及になっていってしまう。

 

 

 僕は、自分の恋愛の話をするのはあまり好きでは無い。もちろん、恥ずかしいということもあるし、話すほどのエピソードが無いということもあれば、小学生の時に友達に好きな女の子を教えたら翌日クラス全員に広まっていたというトラウマがあるということもあるのだが、何よりも恋だの愛だのについて向き合ってしまうと、自分の中に存在するどうしようもない矛盾や人としてダメな部分、そして悲しいくらいのエゴに自分自身が気付いてしまうからだと思う。無理して開いた口でだらだらと恋愛観とやらを語ろうものなら大概、わかったような口をきくなと周りの女の子から思い切り罵倒の言葉を浴びせられる。そして、ああなんて俺はダメな人間なんだ、と気が付いたら小さく小さくなっている。僕にとって恋愛について考えるという事は自分のできることなら見たくなかった嫌ーな部分について腕を組んでがっつり考えるという事と同じで、深淵をのぞき込むくらいストレスフルな行為である。そんな事は、ここまでこの文章を読んで頂いている皆さんは既にお察しのことだと思う。

 僕は目をキラキラさせて愛について語れない。愛がそんなに素敵なものなら、今の俺がやっているこれは何なんだ。もっと希望とか、なんか爽やかなのとか、そういうやつに満ち溢れた奴じゃなかったのか。「愛はおしゃれじゃない」。「愛はダサい」んじゃなくって、わざわざ否定の言葉を使わないとこのニュアンスは伝わらないのだ。鈴木雅之はかの名曲で、ヘソをまげてしまった女性の一挙一動を、感情的に、片っ端からすべて否定する。……あなたはこうすれば満足なんでしょ、どうせ。いや、「違う、そうじゃない」。タイトルに登場する否定の言葉は、時としてどんな美しい言葉よりも強い力を持つ。そう、愛はおしゃれ、〈じゃない〉。

 

 

 「モテたいぜ、君にだけに」? 馬鹿野郎、誰からもモテないやつが都合よくひとりから好かれるわけ無いだろうが。君にだけ伝わればいいとか、君だけがわかればいいとか、そんな言い訳が今日もどんどん自分を肥大させていく。女の子の顔を、「わかってくれるよね?」と上目遣いで見つめる男の潤んだ瞳が、まあみっともないこと、みっともないこと。僕らは今日も、愛の名のもとに君が君がと汚いエゴを垂れ流しているのだ。全ては愛の名のもとに、である。

 あんな汚いものが愛で、こんなに辛いものが恋であってたまるか。くそったれが。