弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


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ゴジラ的問題解決の放棄? ――『GODZILLA ゴジラ』

 祭りだ祭りだ。

 

 

 ハリウッド版の『ゴジラ』を早速観に行ってきました。
 実は僕、そんな素振りは見せたことがありませんが小学生の頃は特撮の怪獣映画が大好きだったんですよ。平成ゴジラ、いわゆる〈vsシリーズ〉と共に幼少期を過ごした世代でもあります。でもここで公開年を確認したところ、〈vsシリーズ〉の最終作である『vsデストロイア』は95年公開になってますね。当時5歳。早熟な子供だ。ただ、その前作の『vsスペースゴジラ』からは間違いなく劇場で観ているのでまあ怪獣映画で育った子供だと言っても差し支え無いでしょう。幼稚園生の頃は時間がある度に父親と昭和期まで遡ってゴジラシリーズを観ていたような気がする。よく覚えてないんですけどね。
 〈vsシリーズ〉終了後、東宝は怪獣映画の穴埋めとして96年から〈平成モスラシリーズ〉をリブートさせまして、そちらは物心ついてから観てますからまだ馴染みがあるかもしれません。で、当時それ以上に好きだったのが〈平成ガメラシリーズ〉。怪獣映画でありながら娯楽にとどまらず、環境問題など地球レベルのテーマをガンガン取り扱う骨太なストーリーで、以降全く話題にならない〈平成モスラシリーズ〉に対して、こちらはいろいろな場所で評価されているようですね。今調べてみたら〈平成ガメラシリーズ〉の公開は95年だったんですね。

 

 

 まあそんな「怪獣映画とぼく」的な自分語りはさておき。

 

 

 そもそもゴジラという怪獣は、1954年に公開された時点では放射能の突然変異によって生まれてしまった巨大怪獣〉という設定だったんですよ。これにはもちろん1945年の広島・長崎への原爆投下が裏にあって、〈暴走する人間の科学力〉のメタファーとして産まれた怪獣だった。
 結局1954年の映画ではそんな人間の科学力が生み出してしまった怪獣を、それよりも強力な化学兵器(オキシジェン・デストロイヤー)で倒す、つまり、危険なテクノロジーをさらに危険なテクノロジーで上書きするという、人間社会、ひいてはテクノロジーに対する強力なアイロニーがスタート地点に存在している作品であったわけです。
 そしてその約60年後、東日本大震災とそれに付随する原子力発電所事故により、日本は原爆投下以来、再びの放射能被害にあうことになります。震災のあった2011年、現在公開中のハリウッド版『ゴジラ』は脚本のリライト段階にあったようですが、こうした事故が起きてしまったからには東日本大震災にまつわる出来事をある程度は映画内に取り込まないといけなくなる。もちろんデリケートな問題ではあるのですが、再びの放射能事故が起きてしまった手前、これを取り扱わないことはゴジラに対して不誠実なことになってしまいますから。
 その結果として完成したハリウッド版『ゴジラ』には、倒壊する原子力発電所津波など、東日本大震災から影響を受けたと思われるモチーフがいくつか登場することになります。これを日本で公開する時に配給会社にも相当な苦悩があったようで、日本版と海外版の予告編では使われているシーンに相当な差があります。海外版がこちら。

 

 なかなか差がありますね。原子力発電所が倒壊するシーンや、津波のシーンがバッサリ使われなくなっている。しかし、いくらでも生まれてきそうなデリケートな問題はクリアできたのかそうでないのかはわかりませんが、結果としてハリウッド版『ゴジラ』はきちんと日本に輸入されてきました。良かった、良かった。

 

 しかしこのハリウッド版『ゴジラ』、予告編を観ている限りでは絶対に気付かないような、ちょっとした仕掛けが本編には施されていまして。それについて僕はちょっとだけ怒ってみようと思うんですよ。

 

【以降は重要なネタバレを含みます】

 

 

 

 


 はい、ということで。
 その、〈予告編を観ている限りでは気付かない仕掛け〉というのは、ゴジラと対決する敵怪獣が出てくる、ということなんですよ。予告編ではもう一体怪獣が出てくる匂いなんて全く無いでしょ? 気になるその名は〈ムートー〉、フォルムとしては『パシフィック・リム』に登場しそうなエイリアン寄りの怪獣だとでも思ってください。ちなみに、オスとメスが登場します。オスは飛びます。2頭のムートーが出てきて、それとゴジラの対決に向けて、物語が進行していきます。
 余談。『パシフィック・リム』を観た時にも思ったんですけど、海外の人と我々は、〈怪獣〉にまつわる感覚が全く違いますよね。彼らにとって〈怪獣〉っていうのはいわゆるエイリアンを発展させたもので、日本人にとっての〈怪獣〉っていうのは恐竜を発展させたもの。僕が『パシフィック・リム』のカイジューにいまいち燃えなかったのも、デザインが完全にエイリアンなんですよね。青白く光って、ドロドロした体液を撒き散らしそうな感じの。やっぱり我々、というか僕がしっくり来る〈怪獣〉はゴモラであってエレキングであって、ギーガー的なエイリアンでは無いんですよねえ。だから恐らく僕が一番燃えるのは、〈ゴジラvsジプシー・デンジャー(『パシフィック・リム』内に登場する巨大ロボット)〉。そういえばジプシー・デンジャーにも原子力が絡んできますね。

 

 話を戻します。
 それでまあ、最終的に物語はゴジラvsムートー』的な場所に向かっていくわけですが、この最後の最後に行われる怪獣の戦闘がまあ派手なこと派手なこと。空を飛んでゴジラに飛びかかるムートー。それを長い尻尾で打ち返すゴジラ。そしてお決まりの熱線。そして、日本の特撮では難しかった怪獣同士の戦闘に人間が絡んでくる要素もきちんと実現させていて、ここまでひと通りやり切られちゃったらもう日本は特撮とかやってらんねえよな、と思いますよね。
 一昨年、僕の周りでは「特撮展」と庵野秀明監督の特撮映画巨神兵東京に現わるが話題になっていましたが、あれも最終的には特撮ファンの特撮ファンによる特撮ファンのための映画であって、結局はノスタルジーから逃れきれていなかんですよね。特撮が好きな人は楽しめる内容であっても、それはいわゆる〈リアリティー〉志向とはまた別のベクトルにあって、面白く観てしまった反面、もう特撮で怪獣映画を作るのは現実的では無いんだろうな、と思う出来事でもありました。
 まあ色々と書きましたが、ともかくエンターテイメント映画としては言うことなしです。巨大怪獣が戦ってるだけの映像だったら二時間くらい余裕で観ていられる。

figma 巨神兵東京に現わる 巨神兵

figma 巨神兵東京に現わる 巨神兵

 

 


 それで、まあ、怒りたい部分ですよ。
 このハリウッド版『ゴジラ』、予告編を観る限りでは〈ゴジラの影響によって起こった原子力発電所の倒壊、それにまつわる怪獣大暴れ〉のストーリーだと思われがちですが、今作で〈放射能(人間の科学技術)によって生み出されてしまった怪獣〉の役割を担うのは、ゴジラではなく敵怪獣のムートーなんですよ原子力発電所の事故もゴジラではなくムートーが原因で、〈放射能を食う〉設定も、ゴジラではなくムートーの方に付けられているんです
 それに対してゴジラはというと、1954年のスタート地点にあった放射能の結果生まれてしまった〉設定は破棄され、〈生物界の頂点に位置し、自然の調和を取る〉という役割が与えられているんです。平成ガメラみたいな存在ですね。よく調べてみたら、「体内に原子炉のようなエネルギー発生装置を持つ」程度の言及に留められていて、ゴジラ原子力発電所を襲うことはない。言ってしまえば、今作の『ゴジラ』は、「人間のテクノロジーが暴走してしまった結果呼び寄せてしまった存在(ムートー)を、どこからともなく現れた超越的な存在(ゴジラ)が倒す」という内容なんですよ。

 

 ここまで書けば、東日本大震災とそれにまつわる出来事を体験してしまっている我々は、あれっ、と思いますよね。実際に現在の我々はテクノロジーを制御できなくて酷い目にあっているのに、それについて今作の『ゴジラ』が出している「どっかからなんかすごい奴がやってきて、色々ゴタゴタしているの全部、うやむやにしてくれるんじゃないのー」という結論が成り立たないことくらい、もう気付いているじゃないですか。ムートーを倒すことができなくて現在ヒーヒー言っているのに、それを倒してくれる存在を人間社会の外側から連れてきて、それで全て丸く収まって解決するわけないじゃないですか。我々が今作の予告編を観た時に想像するような「放射能の影響としてのゴジラ、それと対峙しなければならなくなった人類」という本来あるべき構図と、もともとゴジラという怪獣が抱えている問題が全て丸投げになっているんですよ。
 鑑賞直後は映像的な爽快感のせいでうやむやになっていましたが、もう考えれば考えるほどこれはおかしい。

 

Pen (ペン) 2014年 7/15号 [ゴジラ、完全復活!]

Pen (ペン) 2014年 7/15号 [ゴジラ、完全復活!]

 

 (買った)

 

 僕だって、『ゴジラ』という作品自体が単純な怪獣同士のプロレスの派手さを追求するエンターテイメントに振り切るなら、ここまでの疑問は持たなかったと思うんです。ただ、日本版ではカットされた予告編のシーンのように東日本大震災に触れようとする意志があるなら、津波やら原子力発電所の事故やら、そういう日本人がナーバスになってしまいがちな問題に対して申し訳程度に触れて済ますようなことをされたらちょっとだけ困ってしまうんですよ。
 そしてそれを、1954年のゴジラのような「人間の驕りとしっぺ返し」、「手前のケツを手前で拭く」物語として再生産するならまだしも「人間の失敗のツケを人間以外の存在が背負う」物語に作り換えてしまっている。そんな甘っちょろい結論に軟着陸してはいけない問題だろうと思ってしまうんですよね。

 

 

 そしてこれまた賛否両論わかれるだろうな、と思うのがオチのシーンです。箇条書きで説明しますね。

 

① 軍、核爆弾を使ってムートー2頭とゴジラを同時に退治する計画を立てる
② 放射能を餌とするムートーに核爆弾(タイマーセット済み、遠隔解除不可)が奪われる
③ 軍、核爆弾を奪還する計画を立てる。その計画とは、爆弾をその場で解除するか、解除できないようなら船に乗せて沖で爆発させ、被害を最小限で防ぐというもの
④ 爆弾を回収して船に乗せることには成功したものの、ムートーに妨害されてなかなかタイマー解除ができない
⑤ ゴジラがムートーを退けるものの、タイマーを解除する前に爆弾の真横で力尽きてしまう主人公(爆弾解除班)。爆弾と意識が朦朧としている主人公を乗せ、沖に向けて走りだす船
⑥ 船が沖に出る前にヘリコプターで無事回収される主人公
⑦ 沖で爆発。主人公は生還

 

 こんな感じ。ちなみに、最終的に核爆弾は止められなかった訳ですが、それによって街が半分吹き飛んだり住民が被曝したりとか、そんな問題は起きません。ただ、爆発を止められなかっただけ。いや、厳密に言えば起きているのかもしれませんが、それについてはほとんど言及されていない。第二弾の製作が決まっているようなので、そこで語られることになるのかもしれませんが。

 

 核爆弾をテクノロジーの象徴だとして(1954年のゴジラからそうだったのでこれは間違いないでしょうが)、これを「(時間的には)解除可能な状況でありながら、主人公が力尽きてしまったために解除できなかった」ということは何を意味しているか、ということなんですよ。つまり、テクノロジーを制御するために尽力することもできず、ただ船に乗せられた核爆弾が遠くへ運ばれていき、爆発する様子を主人公はなすすべもなく眺めている。ムートーを目覚めさせてしまい、それを倒そうとした武器も奪われてしまい、人間がこの一連の出来事である程度の勝利を収めるためには核爆弾をきちんと解除して、テクノロジーをきちんと手中に収めるしか方法が無かったのですが、その機会すら奪われてしまう
 僕の文章ではさらっと読めてしまうかもしれませんが、解除可能な状況にある爆弾の真横で主人公が横になってノビている、という状況は、映画的に考えてみれば非常に異様です。普通の映画だったら、そこで力を振り絞って立ち上がるでしょう。しかし、主人公は意識が朦朧としたまま力尽きて何もできない。
 例えば仮に、力尽きたはずの主人公が「立つんだジョー」の要領で祖国の為に力を振り絞り爆弾を解除してしまったらどうなったでしょうか。このオチは〈ザ・ハリウッド映画〉的なエンディングですが、テクノロジーはアンダーザコントロールだよ、大丈夫だよ、という結論になってしまい、恐らく非難轟々だったでしょう。映画の開始30分からもう制御できていませんからね。これからは今までの失敗から学んでアンダーザコントロールだよ、というのも説得力に欠ける。ゴジラはもともと、テクノロジーを「制御できない」ことを描いていた映画でしたから。

 

 今作は、ゴジラのそもそものコンセプトをねじ曲げてしまったのは大問題ですが、言ってしまえば「人間の不可能性」を描いているという点では一貫しています。自分のケツを自分で拭くことすらできず、そして最後の作戦すら失敗に終わる人類。序盤で渡辺謙演じる芹沢博士が「人類は自然を管理していると思っているが、大間違いだ」と言った旨の発言をしますが、本当に首尾一貫して「人間は何もできない」ことが描かれている。人間は何もできないのはまだいいとして、問題なのはその解決方法を人類ではない、なにか別の大きな存在に委ねてしまったことですから。前提として存在している問題には頷ける。その解決方法に問題があるんです。
 ただ非常に難しい仮定として、主人公が力を振り絞って立ち上がるも、爆弾を解除できなかった、というエンディングだったらどうなったんだろう、とも思うんですよね。作品以上に人類の不可能性を描いているとも言えますが、彼らは核爆弾を奪還するまででひと通り尽力しているわけで。「力を尽くしても無駄」という結論についての描写はもうひと通り済んでしまっているような感覚もあります。ただここでも、「尽力するも周囲から危ないと止められて解除できなかった」のか、「尽力するも間に合わず爆弾と一緒に死亡」なのかでだいぶ変わってきますよね。前者だと作品のルートと近くなって、後者だとクリストファー・ノーラン版のバットマンのオチに近くなる。ううむ。

 

S.H.モンスターアーツ ゴジラ (2014)

S.H.モンスターアーツ ゴジラ (2014)

 

 (欲しい)

 


 そんな、ゴジラという怪獣自体の扱い方と問題の解決方法については若干後味の悪さがありますが、エンターテイメントとして観るならこれ以上ないほど痛快で、今まで観たことのない怪獣映画として十分に楽しめる内容です。
 未鑑賞でこれを読んでいる方がいたとすれば、若干興味を持って観に行っても面白いんじゃないかなあ、と。

 

 ちなみにこのハリウッド版『ゴジラ』、次回作が既に決定しており、ラドンモスラキングギドラの内定が決まっているようです。ラドンが今作のムートー(飛ぶ方)みたいになって、モスラがエイリアンみたいになるのは決定として、キングギドラはどの程度日本的なデザインになるんでしょうか。あ、よく見たら全部飛ぶ怪獣だ。
 例えばここでキングギドラを日本版と同じ「宇宙からの侵略者」的な扱いをしてしまうと、再びゴジラの問題を放棄していることになってしまうし。言ってしまえばモスラも「地球の守護神」的な扱いじゃないですか。ただ離れすぎると僕達が怒るでしょ?

 

 まあ、色々な問題をさておき、純粋なエンターテイメント映画として楽しみです。次作。