弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

不死とか人外とか ――『亜人』、『東京喰種』

久しぶりに漫画の話。取り上げる二つを関連付ける気はない。

 

 

亜人(1) (アフタヌーンKC)

亜人(1) (アフタヌーンKC)

 

 

『亜人』/ 桜井画門

 

 使い古された〈死なない人間〉モノでも、切り取り方によってまだまだおもしろい膨らませ方はあるんだな、という素晴らしい例。

 例えば戦闘が行われるストーリーで〈死なない〉キャラクターを作ろうとした時に、彼がどうして死なないのか、っていうのをきちんと考えないといけないじゃないですか。それが、〈再生能力が滅茶苦茶高くて殺せない〉のか、〈皮膚が硬くて外部からの攻撃を一切受け付けない〉のか、そこのルールを厳密に突き詰めていくことで不死の相手と戦うキャラクターに突破口が見いだせるし、そこに戦術が生まれる余地がある。例えば〈皮膚が硬い〉なら、毒を使って麻痺させたりする戦い方が想定できますよね。

 荒川弘鋼の錬金術師』に登場する人造人間(ホムンクルス)は、〈滅茶苦茶な再生能力がある、ただし有限〉というルールを設けることによって、〈死ぬまで殺す〉、または〈再生の能力を逆手に取って拘束する〉という突破口を見出すことができた。いわゆる「センス・オブ・ワンダー」的な話で、荒唐無稽な設定を作るにしろ、そこのルールは細かければ細かいほどいいんです。細かいほうが、ルールの穴をつく面白さが生まれますから。大雑把なルールでは穴をつく発想すら生まれない。

 こうした、使い古された〈死なない〉というモチーフを、物語の中で重要なガジェットとして使用することで新たなブレイクスルーを起こしたのが、『亜人』です。

 

 

 『亜人』に登場する死なない人間〈亜人〉がどんな設定なのかというと、〈死ぬまでは普通の人間と同じ、死んだら全てリセット〉。彼らには異常な再生能力も無ければ、身体能力も至って普通。とにかく、死んだら全てリセットされる。例えば、もし交通事故で骨折をしても、再生能力は普通の人間と同じだから、そのままだと生活に支障が出てしまう。しかし死ぬと全てリセットされるわけだから「骨折を直すために自殺する」という選択肢を取ることができる。『亜人』が優れているのは、こうした〈死んだら全てリセット〉という設定についてひたすら考察して、それを戦術の面にまで落とし込んでいる点にあります。

 そのひとつとして、物語序盤の亜人の佐藤と人間の銃撃戦を拾ってみます。人間が亜人を捉える時、もちろん殺害することはできませんから、お約束のように麻酔銃を使って拘束することが目的です。ダイジェストで説明するとこんな感じ。

①    佐藤の腕に麻酔銃が命中、このままだと拘束されてしまう

②    (どうせ死ねば再生されるから)腕を切り落とし、片腕のみで戦闘続行

③    佐藤の胴体に麻酔銃が命中

④    持っていた拳銃で自殺、再生。五体満足になり戦闘続行

 とまあこんなように、死なないキャラクターをただのものすごく強いキャラクターとして扱うのではなくって、それをきちんと物語内のガジェットとして、当たり前のように機能させているんですねー。

 

 この『亜人』、物語が展開するにつれて隠れ亜人がぞろぞろ登場したり、彼らがテロ組織を作ったりと、徐々に亜人のルールをもっと広い世の中に適応させたらどうなるのか、という実験へシフトして行っております。

 そして『亜人』設定のキモとして、「死なないと亜人かどうかわからない」という設定があって。事故や事件などで死ぬ機会が無ければ、亜人として産まれた人間であっても普通に歳を取って死んでいくんです。怪我をしても「死ななければ」再生しませんからね。そんな死ななければ認知されない、という設定をこれからどう転がしていくか、というのにも注目しているんですよ。わくわくしますね。

 

 

東京喰種トーキョーグール 1 (ヤングジャンプコミックス)

東京喰種トーキョーグール 1 (ヤングジャンプコミックス)

 

 

『東京喰種』/ 石田スイ

 

 アニメ化で話題のやーつ。ダークかつアンダーグラウンドは雰囲気を漂わせつつ、最終的には能力バトル物に帰結していくという。その能力バトルというのも、いわゆる戦闘力がインフレを起こしていく類のものではなく能力によって相性がある、ジョジョでいうスタンドのような扱い方。

 いわゆるバトル物の漫画ってほっとんど読まないんですが、好きなんですよ、『東京喰種』。主人公がかつては温厚な文化系青年だったのが、キツい拷問を受けたせいで覚醒、ストレスで白髪化するところとか。

 

 結局は架空の東京を舞台にした人外モノなんですが、僕は多分、人外とか妖怪とかが好きで、それについては結構思うところがあるんですよね。

 以前に『水木しげる妖怪百科』を読んだのですが、これで思ったのが、本当にちょっとした不思議なこと、ヘタすると気のせいなんじゃないかっていうようなことを、昔の人は妖怪の仕業だと言って無理やり納得させようとしたんだなあ、ということでして。そんな、〈自分の目に見えないところに何か潜んでいるんじゃないか〉という感覚が、妖怪を生み出したんですよね。昔は今みたいに夜の街は明るくないですから、不可視の領域が本当に広かった。

 馬鹿げていると言われてしまいそうなんですが、僕はそういう妖怪やら魑魅魍魎の類は一種の拡張現実なんじゃないかと思っていて。身近に起きる些細な出来事を現実の切れ目とみなして、そこから色々なことを夢想していく。そんな可能性があって好きです。妖怪の類。

 多分、僕がマフィア物やらギャング物の映画が好きなのもそれが理由で、街に存在する自分が知らない、見ることができないアンダーグラウンドな領域を提示してくれるからなんだと思っています。魑魅魍魎とギャングを同列で扱っていいのか、っていう話なんですけど。

 そんなアンダーグラウンドな領域、人外と自分の中にはない領域の世界を描く『東京喰種』、非常に好きです。

 

 ひとつだけ欲を言うなら、舞台をもっとガチガチの都市として描いて欲しかった、というのがあるんですよねえ。

 例えば、拡張現実として魑魅魍魎を描くとき、そのスタート地点になる現実世界はできるだけリアルな方がいいんですよね。現実には存在しないものを描くんだったら、詳細な設定の都市を舞台にしたほうがその異質さが生きてくるんですよ。ジャンルは全然違いますが、花沢健吾アイアムアヒーロー』なんて、本気で現実世界を描いてからそれをぶっ壊しに行くわけですよね。その後もゾンビと戦う舞台は現実世界を強固な基板として使って、そこから物語世界へ向けて現実から少しずつ世界を浮かせていく。

 多分、森見登美彦の大学生小説があれだけウケたのも、物語の舞台をふわっとしたまま描くのではなく、それが厳密に描くわけでなくても〈京都〉と設定し、そこに非現実なガジェットをガンガン放り込んだからだと思うんです。人に化けるタヌキというキャラクターも、〈どこかの街にいる〉ではなく〈京都の街にいる〉と言った瞬間にワクワクしてくるじゃないですか。

 だから、『東京喰種』も、〈東京〉という言葉を使うんだったらもっと厳密に東京を描写するべきだったのではないかと思うんです。物語中にあるような「第○区」という言い方をするのではなくて、現実の都市を描きつつ、ちゃんと「新宿区」と言ってしまう。グール、つまり主人公たち人外はどこにでもいる、という設定なのですが、彼らが集う場所を東京の中のどこにするのかで扱いが全く変わってしまいますから。大きな都市で考えるなら、渋谷が舞台ならグールは「新人類」と同じような扱いであり、新宿なら「移民」、池袋なら「多様な人間のうちのひとつ」になる。そんな東京にがっつり踏み込んで世界を作って欲しかったなあというのは少しだけあります。

 と、思って調べていたのですが、ちゃんと現実に存在している区の名前とある程度はリンクさせているみたいですね。主人公がいる場所は練馬区。うーん、下町的なイメージも無ければ大規模な都市も無いし、あまり詳しくない。

 

 進むにつれて、序盤では人間と人外の戦いだったのが、物語はいつの間にか人外のトライブ同士の戦闘へシフトしていきます。それが最終的にギャング映画的な範囲で終わってしまうのかどうかはわかりませんが、どこかしらで画期的なブレイクスルーを起こしてほしいものです。