弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


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清濁併せ呑む覚悟はあるか?! ――今月のUstream『平凡』(角田光代)前口上

 で、人生長いけど、みんなあと4.50年間どうやって生きていこうと思ってるの? 後悔しつづけて生きていけるの?

平凡

平凡

 

 


 まあとにかく生きていくうえで、何かしらについての後悔っていうのは付きまとうものでして。その度に我々は「あの時ああしていれば!」であるとか、「もっとこうやっていれば!」とか思う訳です。僕もよく考えます。

 いろいろなことを考えて妄想の世界を漂っていますが、ある時期に一番考えていたのは「もし俺が都内の私大に入学していたらどうなってただろうなー」です。そうなったら今みたいに大学に行くために一時間以上の時間がかかることも無く、そして現在の僕のような妙なメンタリティを身に着けることも無かったんだと思います。きっとそうに違いありません。

 で、そんな人生の「たら・れば」に思いっ切りぶつかっていったのが、森美登美彦の名作四畳半神話大系です。原作の小説のエッセンスを上手に抽出して、原作以上に原作の世界を描き切った湯浅政明監督のテレビアニメも有名です。うだつの上がらない大学3回生の主人公が大学に入学したばかりの頃を思い出しつつ、「その時に他のサークルを選んでいればもっと楽しい大学生活が送れたはず」と大学生活を嘆くストーリーを、サークルや主人公周辺の環境を変えつつ、何周も何周もする。そしてどの世界でも「もっと楽しい生活を送れたはずなのに」という結論に着陸してしまう。そんな、「たら・れば」が生み出すパラレルワールドを何周もするのが『四畳半神話大系』でした。

 

 

 そこで森美登美彦が人生の「たら・れば」について出した結論は、「どんな生活を送っていても、どーせろくでもないんだよ!」というもの。そのすべてが、物語に登場する樋口師匠の「君が有意義な大学生活を満喫できるわけがない! 私が保証するからどっしりかまえておれ!」の台詞に集約されています。起きていないことが別の世界でも起きるわけが無いし、出会った人は別の世界でもきちんと出会っている。どのパラレルワールドに飛び込んだところで大差はない。そういった、「たら・れば」の世界を描いておきながら、それらは全て無駄である、と森美登美彦は言います。この「どうせ変わらない」、「なるようにしかならない」という結論はある意味では劇薬のようなもので、坂口安吾ではないですが、救いが無いことが救い、といったような魂をそこから感じてしまう訳です。終盤の『四畳半神話大系』は、人生の不可変性を受け入れながら、それでも日常を肯定する方向に話が転んでいきます。

 

 

 と、いうことで今月のUstreamいいんちょと愉快な鼎談』、お題は角田光代『平凡』です。人生の「たら・れば」を6人の主人公の目線から描いた短編集です。最近は短編集が多いですね。切り口が多いし、読みやすいからですかね。この作品は6つのエピソードを通して人生の「たら・れば」についてそれぞれの回答を出しているのですが、最終的にほとんどのエピソードが現在の自分自身を肯定する方向に転がっていきます。例えば表題作の「平凡」だったら、かつてはひとりの男性を奪い合った主人公ともう一人の女性。結局、その男性と結婚したのは主人公だったのですが、もう一人の女性は芸能人になって大人気。もし自分が今の旦那と結婚していなかったらどうなっていたのだろうか、私が芸能人になっていたのかもしれない、という話。そしてこのエピソードの最終的な終着地点は、「もともと別の人生なんだから、自分の人生と他人の人生を比較するなんておかしい」、というもの。さて、この結論、どうしたもんですかね。

 恐らくこういった小説はそこに至るまでのプロセスやディティールが非常に重要なので、それを今みたいに要約してしまうのはおかしな話なんですが、僕はこの人生の「たら・れば」に関する思考が、非常に安全なところから行われているような気がしてならないんですよね。例えば「平凡」の主人公だったら都心を外れた郊外で暮らしていて、きちんと生活の基盤は整っていて、それ以外のエピソードでもある程度は生活が安定している主人公たちがふとした拍子に「他の人生もあったかもしれないなあ」なんて考え出すところが出発地点になっている。

 こうした「たら・れば」の思考が『四畳半神話大系』のような「ここから逃げ出したい!」「なんとかしたいのにできない」というような負の思考からスタートするのではなく、どうも人生の折り返し地点を越えた人たちのただ単なる退屈しのぎの域を超えていないような気がしていて。どうなんですかね。恐らく僕がまだ二十数年しか生きていない若造で、遠く過去を思い返す経験なんてものがありませんから、こんなことを想ってしまうのかもしれませんが。

 そもそもフィクション自体が真っ暗な現実の中にいかにして光を見出すか、ということが大きな目的としてありますから、最終的に明るい場所に着陸することはある意味物語の宿命であるとも言えるのですが、「たら・れば」について清濁併せ呑むことは本当に難しいなあ、と思った次第です。

 

 そんなこんなで『平凡』については、「それでいいのかよ!」と何度も何度も首をひねりながら読んでしまいました。


 と、いうことでUstreamです。今月は8月3日の20:00から、一時間半の放送を予定しています。

 妙に自分語りを誘発しそうな作品なので、放送では先輩方の人生の「たら・れば」を根掘り葉掘り聞こうと思います。僕は大学一年の時にもっとあの子に声をかけておけばよかったなあ、という後悔についてひたすら喋り倒そうと思います。