弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


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世界のハリボテを破る

幾原邦彦監督『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』作品批評)

 

 

 幾原邦彦監督作品『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』で、作品全編通して最も目を引くのが必要以上の装飾を施された映像である。舞台となる鳳学園は中世の城とも教会とも思えるような派手な作りをされており、学園内のあちこちに咲き乱れる薔薇の花がそれをさらに華やかに見せる。女子の学生服はセーラー服のようでありながらドレスのような作りにもなっている。演出面でも同じことが言える。画面内を埋め尽くすおびただしい量の薔薇の花びら、彼女が身体を動かす度に小さくなびく姫宮アンシーの髪、大きく広がった後にゆっくりと巻き取られる純白のシーツ。そのほとんどが作品本編の流れとは全くと言っていいほど関係の無い装飾映像である。
 そんな一見不要とも言えるようなおびただしい装飾映像の中でかえって目を引くのが、装飾が施されていないシーンである。有栖川樹璃と薫幹が鳳学園の地下へ降りていくシーンに注目する。鳳学園の校内は前述したように城や教会などを模した作りになっているが、樹璃と幹が下りて行った鳳学園の地下はそれとは異なり、ロボットもののアニメ作品で見られる、巨大ロボットが格納されている鉄が印象的なドックのような作りになっている。別の例えをするなら鳳学園の校内はファンタジー世界のような作りであり、地下は機械が特徴的なSF、と言ったところだろうか。
 このファンタジー的演出とメカニカルなSF的演出が最も顕著にみられるのが、作品の終盤、姫宮アンシーが車に乗って城を目指して走っていくシーンである。遠くに見えていた城が徐々に近づき、最後には画面の下部から城がゆっくりと現れる。しかしその城はただの城ではなく、建物の下にキャタピラがついて、その動力で走っている城だった。
 このSF的演出は、主人公のウテナ達がくらすファンタジーの世界はあくまでもハリボテであり、現実の世界をちらつかせるものとして作品の重要な点で用いられるのだ。

 作品中に、鳳学園外部の話が描かれることは無い。鳳学園の一見変わった様子が、この世界では普通の事なのかどうなのかわからないまま、話は進行する。その様子を見ている我々と同じように、登場人物たちにとっても鳳学園は彼らの生活の全てである。寝泊まりする場所も校内の寮だし、学園外の人物が登場することもない。
 学園内は外部の情報から遮断され、完全に閉じた社会として描かれる。登場人物たちも、それを見ている我々も、無意識のうちに鳳学園で描かれていることが“この世界では正しい事”として受け入れてしまうのである。現に、決闘に勝った人間が女性を自分の“モノ”にできるという一見おかしいと思える風潮が、この世界、つまり鳳学園内では誰も疑問を持つことなく、まかり通っているのである。
 転校生であり未だ鳳学園という世界のシステムに慣れていないウテナは、「薔薇の花嫁」というシステムに対して、観客である我々と同じように違和感を持ち、強い嫌悪感を示す。そして、鳳学園、つまり世界のシステムに未だ捉えられていない人間として“革命”を志すのである。

 革命を起こすためには、現在の自分たちが置かれている状況を当たり前のものだとせずに、疑うことが必要になる。今自分たちが生活している世界は完全なものではないのかもしれない。美しい校舎の地下は、鉄骨が丸出しの汚いガレージだった。白く輝く城は、キャタピラで下品な音を立てて走り、足元の人間を踏みつぶすためのものだった。度々用いられるSF的演出は、我々が生活している世界がもしかしたらそうやって取り繕って完成したものであることを示し、同時に世界の脆さを伝えることになる。
 もしかしたら我々が生活しているこの世界だって、裏側を覗けばただのハリボテである可能性は否定できないじゃないか。自分たちの世界が完全なものだと疑って初めて、革命へ第一歩を踏み出せるのかもしれない。