弱者の理論

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『ぐるりのこと。』の涙の種類

橋口亮輔監督『ぐるりのこと。』作品批評) 

 

ぐるりのこと。 [DVD]

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 あれほど気にしていたのに家の蜘蛛を殺してしまった夫のカナオに対して、翔子はそれまでのタガが外れたように怒り出す。そのまま夫、床、隣人に当り散らし、最後の最後はリビングルームの床に座り込み、静かに涙を流す。
 作品の中盤、今まですれ違っていた夫婦が互いの気持ちを再確認するシーンだ。この場面で、翔子は涙を流しながら生きていく事や、夫に対する不安を語る。その合間に何度も紛れ込んで、スムーズな語りを妨害するのが翔子の“えづき”だ。独白の合間の、う、とか、えっ、とか、そんな翔子の声にならない声が、この場面では効果的に収められている。この悲痛な声が、彼女の独白とも相まって観客である我々をいたたまれない気持ちにさせるのだ。

 橋口亮輔監督作品の『ぐるりのこと。』は、ある夫婦の生きた90年代を、実際に起きた事件と並べて描いた作品である。作品を通してひたすら描かれるのは、“時代の流れを横から眺めている夫婦”の姿だ。妻の翔子は勤めていた出版社を心の病のせいで辞めてしまい、夫のカナオは友人から紹介された法廷画家の仕事で生計を立てている。その“時代を横から眺めている”姿は、カナオの法廷画家という仕事で如実に現れている。報道関係者で溢れかえる裁判所を、カナオは慌てることなくゆっくりと歩く。そして、地下鉄サリン事件や連続幼女誘拐事件の裁判を傍聴し、時代の流れに飲み込まれた不幸な人間たちをたくさん目にすることになる。時折登場する兄夫婦は、バブル景気とその崩壊の影響を強く受けている、主人公夫婦とは対照的な“時代に流されている夫婦”の姿である。そして極めつけが、作品の最後のシーンだ。カナオは街を忙しく行きかう人の流れを、そこから完全に隔絶された二階の部屋の中から眺め、「人、人、人」と呟く。ラストシーンであり、この作品を象徴する場面である。
 前述したように、カナオの目を通して語られるのは“時代に流されてしまう人々”の姿である。傍聴のシーンでは、裁判所に加害者と被害者が一堂に会することになる。被害者は、あいつを死刑にしろ、と声を荒げ、加害者は泣きながら、ごめんなさい、と謝ったり、死刑にしてくれ、と叫んだりする。カナオは、その姿をひたすら見ているのだ。

 作品の終盤、翔子のそれとは別に、登場人物が涙を流す場面がもうひとつだけ見受けられる。カナオが傍聴している裁判の最中、加害者に、継母、偽善者、死ね、と罵られる、被害者の両親である。おそらくこの裁判のモチーフは2001年6月に起きた付属池田小事件である。小学生の子供を殺害された両親はその言葉を受け、顔を真っ赤にして泣き出す。両親のうめき声に似た泣き声が漏れ出した頃、加害者は、みんな死ね、と言って法廷からつまみ出される。加害者がいなくなってからも、両親の涙が止まることはない。母親は法廷中に聞こえるような声で泣き叫び、父親は泣くのを必死で堪えながらその母親の頭を乱暴に抱える。

 法廷での夫婦の姿と、翔子が涙を流す姿は全く対照的に描かれている。繊細な“えずき”が特徴的だった翔子のそれに比べ、法廷での夫婦で最も記憶に残るのが耳を衝く“叫び”である。そしてもう一つが、法廷で泣く夫婦は、何も喋らない点にある。ただ涙を流して叫び声をあげるだけで、その感情を吐き出すことが無い。
 この夫婦の姿もまた、“時代に流された夫婦”の姿である。時代のとてつもなく強い流れの中では、顔が近づくほどの距離まで近づかないと涙を流す人々の声を聴くことはできない。流されない人々の視点を通して、そんな事実が淡々と語られるのだ。