弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

ビックバンまで

  全ての授業を終えて、バイトに向かうために僕はバスに乗る。授業が終わってからすぐのバスは何時だって混雑する。バス停留所から大きくはみ出して、近場の 信号近くまで人の列が伸びる事だって珍しくは無い。僕はその列の中腹につけ、程なくしてやってきたバスに乗る。後部の二人掛けの席の奥に座って、イヤホン を耳に突っ込む。雑多な空気が入り混じる帰りのバスは苦手だが、こうするといくらか気持ちが落ち着く。

  停留所に並んでいる人間を、次々とバスが飲み込んで行く。老人や子供もいるが、ほとんどは僕と同じ大学の学生だろう。そして、後部の席まで人が流れ込んで くるようになって、一人しか座っていなかった二人掛けの席が次々と埋まりだす。僕は目を開いて、その様子をなんとなく眺めている。

  程なくして、僕の隣の席も埋まる。座ったのは僕と同じくらいの年の女の子だった。彼女は座ってすぐに鞄からハンドタオルを取り出す。長い茶髪をかきわけ て、それを自分の首やおでこ、うなじに当てる。音楽を聴きながら前を見ていても、その様子はどうしても僕の視界に入ってしまう。何故だか妙に申し訳無い気 持ちになって、僕は目を閉じて窓ガラスに頭を付ける。その時、タオルを持った腕をまわしたせいだろうか、彼女の肘が僕の肩に当たった。僕は驚いて目を開 け、隣の彼女を見る。その様子に驚いたのだろう、彼女は僕の顔をみて、頭を下げた。目を閉じる前に、僕は彼女の方に再び目をやった。どこかで見覚えのある 女の子だった。恐らく、前にもバスで見たのだろうと思って、僕はまた目を閉じる。


 大学に向かうバスに乗ったり、講義を受けたり、キャンパスの中を歩いていたりすると、僕はとんでもない数の仲間とすれ違う。しかし、いつだって、隣に座るだけ、プリントを手渡しするだけ、ちらりと目が合うだけで、その人はどこかへと行ってしまう。

  大学という場所は、研究機関であると同時に、ある一定の空間に同年代の男女を押しこむ事で成り立っている。その中ではいつも、人間関係の糸が絡み合い、不 格好な蜘蛛の巣が作られる。その蜘蛛の巣の中に自分自身も取り込まれていて、いつのまにか自分が糸の継ぎ目の役割をしている事に気付く。僕はいつだって自 分に繋がれた糸を手繰って誰かを呼ぶだけで、友人に結ばれた糸のさらに先は誰に通じているかなんて考えた事が無い。その糸をさらに手繰って行けば、きっと この大学にいる誰とでも繋がれるに決まっている。今日授業で隣だったあの人も、図書館ですれ違ったあの人も、きっとそう遠くない存在だ。



 そう、奇跡の準備はできている。

 あれ、バスでお会いした事ありますよね。次の機会に僕がそう言うだけで、僕と彼女の間に存在する隔たりは一瞬で無くなって、今まではなにも無かった場所に一本の糸が引かれることになるのだ。無から新しいものが生まれる、奇跡の瞬間だ。

 準備はもう十分だ。あとはこの蜘蛛の巣を新しく 組み替えるために、糸が絡まった身体を思い切りじたばたさせるだけ。指先だけでも触れる事ができれば、と無様に腕を伸ばせばいいのに、今日も僕はそれすら できない。無から何かを生み出す、ビッグバンを起こすには、それくらいの力が必要なのだ。

 奇跡の準備は、もうできているのに。



 気が付いたらバスは終点で停車している。隣の彼女は、降車口が開いたらさっさと出て行ってしまった。僕は後部座席から降車する人の流れに上手く乗れずに、二の足を踏んでいる。