弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

近況 ―坂口安吾を読んでいます―

まあそもそも流暢にブログを更新してる時間があるか無いかって言われたら微妙なんですけどね。

大学の先輩が「ブログを続けるコツは今やらなければいけない事を放り出して書くこと」とおっしゃっていたので、それに多大な影響を受けている、ということにしましょうか。

 

本当はBase Ball Bearの新譜が素晴らしい、と書こうと思ったのですが、音楽の話が続くとそれしか無い芸のないヤツだと思われてしまうのが悔しいので一旦文学の話に逃げます。大学の専攻的にもこっちだし。

本当はもっと文学の話を面白くできたらいいなと思うんですけど、少しだけ難しく考えてしまうクセがあるのか、それをどう面白いか、どうすごいかって語ることがイマイチ苦手な気がします。純粋なファンとして、これいいよ! こんなところがいいよ! って書くなら音楽とか映像作品の方が楽ですね。

 

 

本題。坂口安吾を最近読んでいます。

僕の印象としては、論理でがちがちに固まって、正しくひねくれている人、と言った感じですかね。 岩波文庫の短編集と随筆集を両方購入してちびちび読んでいるのですが、比較的エッセイ集の方が面白いかもしれません。そして、その随筆集の中で坂口安吾本人が書いている文学論などを踏まえて短編集を読んでみると、もう少しだけ面白いかもしれませんね。

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

 

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

 

このふたつ。

ちなみに、岩波文庫の最大の特徴は、文庫本のカバーを外して電車内で本を鞄からおもむろに取り出してページをめくり出すと、最大限のドヤ顔ができるってことですかね。岩波文庫読んでるってだけでちょっとは偉そうにできますよ、多分。 

 

ちょっと読んでみたいという人は青空文庫でも読めない事はないです。多少形式は良くないですけどね。スマートフォン持ちの人はアプリをダウンロードして頂ければ、いい感じの暇つぶしになると思います。僕も最近は青空文庫太宰治を読んでいます。

 

てなわけで、今日はこの坂口安吾の随筆のひとつ『堕落論』の話をしようと思うんです。

知らない方のために説明すると、 まあ安吾が有名になるきっかけになった随筆だと覚えていただければいいのではないですかね。1946年、戦後間もないころに発表されて、これをきっかけとして時代に寵愛されるようになった、と文庫の表紙には書かれていますね。内容では戦争後の日本人を赤穂四十七士などに絡めて言及されています。この辺りは後でも触れるので、ここでは割愛しますね。

 

ぶっちゃけると、この『堕落論』、書いてあることはものすごくシンプルなんです。本当に簡単に要約すると、<人間が堕落するのは止めようがない。だから、堕落した自分を自らの手ですくうことが必要である。そして、そこに自分の生きる指針がみつかるはずである>。これだけ。

僕の解釈なので、俺はちょっと違うんだよ、って人がいるかもしれませんが、大意はこのような所にあると思います。文庫本にしておよそ10ページと少しの量の文章で、言っているのはここまでシンプルなことだと思うんですよ。 

文章中では、赤穂四十七士と武士道や天皇制、戦争で行われた破壊などたくさんのイメージがぼんぼん飛び込んできますが、結局言いたいのは上のこと。武士道や天皇制は、先程僕が言及した、<人間が堕落すること>を止める存在として文章中で用いられていて、戦争による破壊は、人間を堕落に至る過程から救い出すものとして語られる。そして、こういった着色のためのモチーフの説明に、安吾はかなり長く文章を書くんですね。

 

言い換えてしまえば、先程僕が書いてしまったような一言で安吾が『堕落論』で語る内容は伝わってしまう。しかし、その一言を伝えるために、同じ事実をいろいろな方向から眺めて、同じことを別の言葉を使って記述することで、この文庫版10ページができている訳です。

そして、武士道や破壊というモチーフは安吾が先程の一言を伝える時に、色を付けるために付随して生まれてきた内容、ということですね。このモチーフを本編と無関係と言い切ることは絶対に出来ませんが、言い過ぎることを恐れなければ、このモチーフが無くても、安吾は自分が持っている堕落に対するイメージを記述することができる。

『堕落論』には無駄な文章があると無理やり仮定して、そしてその無駄な部分をそぎ落とすとなると、多分本編に付随する部分は恐らくカットされてしまう。だってそれでも言いたいことは伝わるんですもん。まあ大事なものはたくさん失われますけどね。

 

決して僕は、安吾の文章には無駄な部分がある! 編集仕事しろ! と言いたいわけでは無いですよ。逆に、無駄なものが削ぎ落とされた文章よりも、こういう雑多なイメージが転がっている文章の方が面白いのではないか、と考えてみたいんです。

 

例えば、ここで楽曲の歌詞の話をしましょうか。何がいいだろうなあ、例えばサカナクション『アイデンティティ』の歌詞を見てもらいたいんですけど。

 で、大まかに読んでいただければこの曲も随所でいわゆる<メッセージ>はなんとなーく提示されている訳ですけど、それ以外の歌詞ってそのメッセージを語るために必ずしも必要というわけでは無いですよね。いや、厳密に言えば必要でないというわけでは無く必然的に生まれてきたのでしょうけど、メッセージと歌詞で行われている描写が直接つながるかと言うとそういうわけでは無い。

恐らく、『アイデンティティ』という言葉を出した時にそれに付いてきたイメージが歌詞になったのではないかと僕は考えているんですけどね。『アイデンティティ』って言葉についてくるぐちゃっとしたイメージが、メッセージと一緒に出てきて歌詞になっている。そんな感じ。

 

これって、安吾の『堕落論』と似ていると思いませんかね。堕落、というテーマについてくる安吾がもっている諸々のイメージが、語りたい本筋とは別にずるずる出てきて、それがそのまま文章になっている感じ。それを一本の筋とするのではなく、おびただしいイメージが散らかったまま出す感じ。

関係ありませんが、僕は楽曲の歌詞にメッセージなんてなくてもいいじゃんと思っているタイプです。

 

話を戻しましょう。

もともと人の考えとか思考って、明確な筋道立てて続いているものではないですよね。例えばO型の特徴として、「話題が飛ぶけど自分の中ではつながっている」みたいなのがあるじゃないですか。それと同じように、話題としては若干それてしまうけれど、安吾の中では堕落と破壊がつながっているんです。まあきちんとつながりが文章中に明示されているんで、これは疑いようがありませんけどね。

何が言いたいかというと、『堕落論』では完全な整理が行われる前の思考をそっくりそのまま提示されている、ってことです。

安吾は武士道や天皇制の意義や戦争による破壊がもたらしたものと言った、いわば寄り道の部分に多くの文章量を費やし、それを僕たちに説明するんです。中心にあるものからイメージを膨らませて言葉を紡いでいく歌詞のように。

 

 

なら、どうして先程僕が書いたような<人が堕落するのは…>と一言書かずに、わざわざ一見寄り道に見えてしまうようなモチーフを描く必要があるのか。それは恐らく、というか言うまでもなく<寄り道の部分が安吾の思考のスタート地点である>からでしょうね。

戦争による破壊を目にして今までにない感情を持った安吾は、これが何なのだろうと、 今まで自らが思考したこと(武士道や天皇制)とそれを結びつけ、さらなるジャンプを図る。そして、その過程で処女を守って自殺をした身内の話や戦争裁判を受ける軍人と結びつけ、堕落、という名前をそこにつける。そういった思考の上で完成したのが、『堕落論』なのではないかと考えるわけです。

 

僕は昔の作家が書く随筆をそこまでたくさん読んでいませんが、安吾の随筆にはこういった<散らばったイメージ>みたいなものが凄くたくさんある。書いてあることはシンプルなのに、読み進めていくだけだと本筋がどこにあるのかを見失ってしまいます。しかし、書き手の思考のような漠然とした思考のもやもやが読み手に叩き込まれるわけです。

恐らくここから、随筆で書かれていることを一言でまとめるのが、読み解く、ということなんですが、それをやってしまうと非常に身も蓋もないですよね。で、そこで僕はこのイメージが散らばっている文章を読むという行為は、作家との擬似的な対話に近いのではないかなあと思ったりなんかしたりもするわけです。

 

Twitterでも書いたんですが、文章が手書きからワープロ書きになって編集が楽になってから、ここわかり辛いからとか、ここが余計だからとか、そうやって文字を削るようになると、文章はどんどんわかりやすくなりますよね。『堕落論』だと、僕が要約した一文をもうすこし膨らませればひとつの随筆として成立してしまう訳です。

でもこれでわかりやすくなる代わりに、対話の可能性が無くなってしまうのではないかなあなんてことを考えてしまう訳です。

 

現在は純文学自体そんなに流行ってないし(純文学の定義もわかんないし)、戦後に安吾が『堕落論』を書いたように随筆を書いて多くの人にイデオロギーのレベルで影響を与える人ってどのくらいいるんですかね。さっき歌詞の話もちらっとしましたけど、最近の人は擬似的な会話ってのは意外と音楽アーティストと行ってるんですかね。まあ僕もやってるし。「ある曲を好きになるときは書いている人ごと好きになる」って人もいるくらいだし。 

  

乱暴な言い方をしてしまうと、漠然とした違和感とか得体のしれない空気に圧倒されながら訳もわからず読み進めていくだけでも、安吾はなかなか面白いと思いますよ、ってことです。結局書いてあることはシンプルなんだし。

 

 

まあこうやってぐちゃぐちゃ自分の頭の中に転がっているイメージを書きなぐりましたが、みなさん僕との擬似的対話は楽しめましたかね。もちろん、書いていることは一言でまとめられてしまうほどシンプルなんですけどね…