弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

五里霧中、無我夢中

「わかった。じゃあアタシが探り入れてきてあげるから!」

 彼女は僕の高さに合わせて顔を上に向けているが、それでも俯き加減に見えた。うっすらと黒く縁取られた目が二つ、そこから僕を真っ直ぐに捉えている。そのまま視線を僕から外すことなく、彼女は顔を少しだけ右に傾けて両目を細める。その唇がねっとりした光を放ったと思うと、その両端がぐいと吊りあがって、顔の下部に大きなピンク色の三日月ができた。その三日月の中心にある裂け目から、白い歯がちらりと見えた。気が付いたら彼女の両目は再び大きく開かれていて、両穴の大部分を占める黒い瞳が行儀よく左側に寄っている。首を傾けた拍子に丁寧に分けられた茶色い前髪が落ちてきて、彼女の左目を隠した。彼女は首を軽く振って左目の上からどかした前髪を手ですぐに直してから、両手を胸の前で合わせた。ぱちん、と音がする。合わせた手の先を細い顎の左側に付け、彼女は一言、任せて、と言った。一度への字にした唇を少しだけすぼめ、こくこくと数回首が上下に小さく動く。黒く縁取られた目は最初の時と同じ大きさで、僕の方を真っ直ぐに見ていた。

 あの子の事、好きなの? と彼女が僕に聞いてから、数分後の出来事だった。誰から聞いたの? ん、内緒。そんなこといいから、好きなの? と彼女は矢継ぎ早に僕に質問をぶつけてくる。今までに僕の前で見せた事の無いような笑顔で。確かに彼女にいろいろ聞かれる事に結果としてきちんと答えている自分にも問題があるかもしれないが、この展開の早さは何なのだろうか。僕の話を根ほり葉ほり聞き、最後は頼んでもいないのに『アタシが探りを入れてくるから!』である。

 あの頃の色恋沙汰は、時として何故か情報戦のようになってしまう。打つ手が尽きた男の前によく登場するのがこの『探り』の女だ。僕は、彼女を使ってあの子の情報を少しでも手に入れようとする。どんな男性が好きか。自分の事を何と言っているか。しかし、僕に善意の顔で近付いてきた彼女の目的は、もっぱら僕から何かしらのエピソードや恥ずかしい話を聞いてニヤニヤする事で、自分とあの子の恋路を舗装する事ではない。そして僕がどんなに赤裸々に事実を喋っても、彼女達から伝わる情報はほんの一握り。『あの子は面食いだから』『なんか良くわかんないって言ってたよ』程度で、最後には『もう一度デート誘ってみればいいじゃん!』である。情報が交錯。僕はあの子の事がどんどんわからなくなり、あの子が僕に放つ言葉の裏の裏の裏までを考える。こうして、あの子と僕の距離はどんどん広がっていく。

 今になって思うのが、僕が『探り』を使ったのはただの悪あがきだったのではないかという事だ。恐らく、上手く行くはずの色恋沙汰なんて、他人が手を出さなくても自然と上手く行くものだ。上手く行かないものは、誰の手が入った所で結果としてやはり上手く行かないのだ。やはり色恋沙汰とは『僕』と『あの子』が直接つながっているから成立する訳であり、その間に『探り』が入るという事は自然な状態では無いと思う。

 それでもあの頃の僕は彼女の力を借りた。恐らく、彼女から貰いたかったのはあの子との当時の関係をぶち破る為のGOサインであり、僕はそれが貰えると信じて疑っていなかった。あの頃の出来事が時効を迎えた今、僕が思い出すのは『あの子の事、好きなの?』と僕に問う、彼女の生き生きとした表情だ。当時好きだったあの子とは卒業以来きっぱりと連絡を取っていないが、『探り』の彼女とはしばしば文字のやり取りをしている。彼女の事は恨んでいない。が、この事を美談で片付けてしまう事に対しては、いささか不満がある。