弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

ハンサムケンヤから考える、ソロミュージシャンと演奏隊の素敵な関係

  久しぶりの更新を前にかつて自分が書いた記事を読んで来たら、意外と良く書けているような気がする

 お久しぶりです、某しです。春になってからずっとバタバタしていまして、まとまった記事を書く時間が獲得できませんでした。てへぺろ。こうやって書き出してしまうと、まとまった時間が飛んで行ってしまうので、いいやら悪いやら、ですね。
 さて、今日も元気に行きましょう。


 今回は、「立体と平面、その中心」をキーワードにソロミュージシャンのライブ演奏を聴いてみよう、という試みです。お付き合いくださいませ。

 まずはこちらを。

♪これくらいで歌う / ハンサムケンヤ


自主制作アニメ ハンサムケンヤ「これくらいで歌う」(Sing in my own way) - YouTube


 京都出身のソロミュージシャン、ハンサムケンヤの楽曲です。
 すごいいいですよね、ハンサムケンヤ。何がいいって、変な言い方をしてしまうと、どこかで聴いたことがあるようなメロディーで曲ができていること。どこかで聴いたことがある、ということはもちろん耳触りのいい、耳になじんでいるメロディーという訳で、なんの違和感もなくすーっと身体に馴染むんじゃないかなと思っています。
 厳密にいうとこの音源からメジャーデビュー第一弾ミニアルバムでこの曲が再録されているのですが、それがこれ以上に素晴らしい。ミニアルバム『ゴールドマッシュ』、是非ご一聴を。

ゴールドマッシュ

ゴールドマッシュ

 

 僕がはじめてハンサムケンヤを聴いたのはライブハウスでして。基本的に彼はソロミュージシャンですが、ライブ活動を行う際はバンド編成(ギター・キーボード・ベース・ドラム+本人)で活動しているようです。ライブの時の彼は、演奏の核になるようなギタープレイはすべてバンドのギタリストに任せて、曲に応じて音の厚みを出す程度のギタープレイしかしない。ギターボーカルの本当にボーカルの部分にウェイトを置いて、ライブを行っている
 しかし、全編通して維持されていた演奏のバランスが、最後に演奏された曲、「これくらいで歌う」のアウトロで崩れるんです。何が起きるかというと、それまで歌に重点を置いて必要以上のギタープレイを行っていなかったハンサムケンヤ本人が、ギターソロを弾く
 僕はこの時のライブに本当にたまたま顔を出していたのですが、この瞬間にいたく感動してしまい、結局彼の音源、『エフコード』を購入して帰ることになります。

エフコード

エフコード

 

 まあ、まくらはこのくらいにして。

 これはハンサムケンヤ、もしくはソロミュージシャンに限らずバンド全般に言えることだと思うのですが、ある演奏隊にはその演奏隊のバランスがありますよね。僕みたいな素人目にもわかりやすい例だったら、ドラムが引っ張っていくバンドとか、ギターと歌のフレーズを中心にそこにリズムを乗せていくようなバンド、とか。もちろんそれぞれのバンドにそれぞれのバランスがあるのは当然ですが、もしこれが5人組バンドによる5人の演奏隊か、先ほどのハンサムケンヤのようにソロミュージシャンを中心に置く5人の演奏隊か、でその意味が全然変わってしまう
 ソロミュージシャンのバックバンドというのは、ソロミュージシャンを押し出すために、ソロミュージシャンありきで作られたものだから、言ってしまえば、バックバンドのメンバーがギターソロを弾いてもそれが演奏の中心になることは無いし、ソロを弾く時にステージ前方に乗り出すこともない。バンドのバランスはどうであれ、常にメインにいるのはソロミュージシャンなんです。
 
 と、いうことで、本日の二曲目です。
♪長い夢 / YUKI


YUKI - 長い夢 - YouTube


 とりあえず、YUKIさんに登場していただきました。シンガーソングライターという訳ではないですが、ソロミュージシャンということには異論は無いでしょう。以下、敬称略です。
 僕はここで、YUKIに限らず、ソロミュージシャンのバックバンドを〈匿名性が高い演奏隊〉と言おうと思います。匿名性が高い、というのは〈顔が無い〉と言い換えてしまってもいい。
 あまり聞こえは良くないかもしれませんが、僕はソロミュージシャンのバックバンドを〈ソロミュージシャンを中心に編成されたもの〉とするなら、彼らの演奏は匿名性が高くて然るべきだと思っています。本来は中心であるYUKIやハンサムケンヤより目立つべきでは無いのですから。特別な場合を除いて、YUKIが歌を歌っていない時でも、ステージの中心にはYUKIがいるべき。言ってしまえば、YUKIがステージにいない時でも。

 しかし、注目すべきはハンサムケンヤとは違ってYUKIは演奏自体にはほとんど関与しない。だから、YUKIのバックバンドでは、〈わかりやすい中心の存在がありながら、その中心はバンド演奏の内側にはいない〉、という奇妙なことが起きているんです。
 もっとわかりやすく、語弊のある言い方をするとYUKIのバックバンドは、ものすごーく、とんでもなく豪華なカラオケに近いんです。カラオケに行ったとき、僕らはよくできている演奏に、ただ何も考えずに歌を乗せる。その演奏はもともと歌を乗せるために存在するものだから、演奏自体は、それだけでは意味のない、言ってしまえば〈聴きどころのない〉演奏となってしまう。これが演奏隊の匿名性です。
 しかし注目すべきは、この演奏は〈カラオケとしては完成している〉ということです。カラオケの演奏に誰が歌を乗せてもそれが成立するように、YUKIのバックバンドが演奏しているところに、別のボーカリストを歌わせてみても、完成品としての良し悪しをさておけば(そこが一番重要なのですが)成立してしまう。つまり、中心が存在する演奏隊であるにも関わらず、中心を欠いても成立してしまう。これが、〈中心はバンド演奏の内側にはいない〉ということです。イメージ的には、箱に近いかもしれません。YUKIのバックバンドの演奏は、中身が入っていなくても価値のある、ものすごくきれいな空箱なんです。
 これをもうちょっと面白い言い方をすると、YUKIはバックバンドを俯瞰できる場所にいる、としても問題ないかもしれません。バックバンドを二次元的な平面の図形であるとするなら、YUKIはそれを見下ろす場所、三次元的な場所に存在している

 

 それをふまえて、本日の三曲目です。
♪歩いて帰ろう / 斉藤和義


斉藤和義 - 歩いて帰ろう - YouTube


 いやー、かっこいい。ソロミュージシャン、シンガーソングライターの斉藤和義。この映像、先ほどの視点をもって見てみるとYUKIのライブとの違いがすごくよくわかりませんかね? 言ってしまうと、斉藤和義のバックバンドの演奏はカラオケにはなりえないんです。なぜなら、斉藤和義本人が演奏の中心に立っているから。
 斉藤和義はバックバンドにギタリストがいながら、多くの曲で自らギターソロを取り、歌を歌いながらサウンドの中心にも立っている。先ほどのYUKIの演奏を〈中心がありながら、中心にいるべき人間が演奏の内側にいない〉としましたが、斉藤和義は〈バンドの中心が、演奏の中心でもある〉状態なんです。つまり、YUKI無しでもカラオケとして成立してしまう演奏隊に対して、斉藤和義を欠いてしまったこちらのバックバンドは同時にバンドの中心を欠いてしまう訳だから、サウンドも不完全なものとなり、成立しなくなってしまう斉藤和義とそのバックバンドはきちんとした箱を用意して、その中にちゃんと中身が入っている状態ですから、箱単体ではなかなか成立しない。どちらがいい、と言っているのではなく、こちらは中身込で成立するものとして作られているんです。
 二次元/三次元の例えをここでもう一度使うと、二次元的な図形を見下ろしているYUKIに対して、斉藤和義はひとつひとつの頂点をつなぎ合わせながら、図形の中心に存在しているんですね。


 ここで、秦基博のようなアコースティックギター弾き語りのソロミュージシャンはどっちに入るのか、という問題があるんですよね。演奏に携わっているから後者だろ、と思われるかもしれませんが恐らくパターンとしては前者、YUKIパターンに近いのではないかと思っています。問題は演奏に携わっているか否か、という問題ではなく、演奏だけでなく、バンドでも中心にいるか否か、という問題なので。
 恐らく彼らにとってのアコースティックギターは、演奏上仕方なく持っていてもう一人ギタリストが増やせるならそっちに任せる、と言うようなものではなく、恐らく歌う時に必要なもの、という役割が強いのだと思います。もちろんサウンド的に必要がない、という訳では無いですが。やはり彼らが大きな役割を占めているのはサウンドと歌同時、というよりも歌が強いのではないでしょうか。

 

 ここで、ハンサムケンヤにようやく戻ってきます。

♪テヌート / ハンサムケンヤ


ハンサムケンヤ/テヌート(MUSIC VIDEO)+密着ドキュメンタリー - YouTube


 彼もライブ演奏中はエレキギターを持っているタイプのソロミュージシャンですが、冒頭で書いたように、役割上ではサウンド面でも中心に立つのではなく、歌を中心にプレイしている。つまり、彼らのライブはそのほとんどの時間が〈中身のないきれいな箱〉の状態なんです。
 しかし、ライブの最後の最後で、〈ハンサムケンヤがギターソロを弾く〉という行為によってそのバランスが崩される。つまり、全編通して図形、つまり演奏を三次元的に見下ろしていたはずのハンサムケンヤが、急に図形の内側に入ってきて、箱に中身が入る。それまで中心が不在だった演奏隊に、〈ハンサムケンヤがギターソロを弾く〉という行為によって、いきなり中心が生まれる。匿名性の強かったサウンドに、急に顔が付くような状態。それまでのバックバンドとソロミュージシャンの関係が最後の最後で変化することで、聴き手は「!」と反応してしまう訳です。
 空間を支配している演奏を俯瞰するということは、つまり空間を支配していることと同義。ある意味その瞬間は、ライブハウスという空間を支配している神のような存在だったハンサムケンヤが、俯瞰するという一つ上の空間にいる状態から我々観客がいる空間に降りてくる、つまり降臨する、という状態だとも言える
 まあ、泣いちゃったよね、この瞬間に。ライブハウスで。


 まとめ。
 ソロミュージシャンのバックバンドは明確な中心が存在しているという点で、数人組のロックバンドとはそもそものスタート地点から異なっている。そして、その中心人物が演奏に大きく携わるか否かによって、バックバンドとの関係が二次元的/三次元的に変化する。ハンサムケンヤはそれまで三次元的だったバックバンドとの関係を、ライブの終盤で二次元的へと変化させることで、観客を驚かせ、楽曲の印象を強くしている。
 あら、まとめて書くとすごくシンプル。「楽曲の印象を強くする」って書いちゃうとすごく安っぽいんですけど、何とかならないですかね。神が降臨する、でいいの?

 

 そんな素敵な楽曲をたくさん作っているハンサムケンヤ、メジャーデビューしてミニアルバムを二枚出しています。一枚目は上に張り付けた『ゴールドマッシュ』、そしてもう一枚が『ブラックフレーム』。両方とも、ハンサムケンヤの見た目の特徴がタイトルになっているのが面白いですね。レンタルは難しいでしょうが、是非ご一聴を、ということで。

ブラックフレーム

ブラックフレーム

 

 ちなみに、僕が一年前に書いたスガシカオのライブは、このどちらにも当てはまりませんね。かといって、数人組ロックバンドと同じバランスかと言われればもちろんそんな訳もなく、今にして思えば異常なバランス感覚でしたね。
 恐らくプレイヤー全員が実力のあるミュージシャンだからこそ成り立つのでしょうが、あのバンドはかろうじてスガシカオを中心として、全員がバラバラの、好き勝手な方向を向いているんです。全員がスガシカオを食うくらいの存在感を出し、時には演奏の中心に立ち、思う存分ふざける。
 一体なんなんだ、あの人たちは。