弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


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東京出身者のための東京論 ――岩井俊二『スワロウテイル』、ノスタルジーとしての「東京」ソング

 

スワロウテイル [Blu-ray]

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 西谷修は評論『ふるさと、またはソラリスの海』において坂口安吾の故郷へむけた視線を分析し、「故郷は二重の意味を持って創造される」とした。ある人が生まれ育った場所を離れた瞬間、それまで生活してきた空間は急に〈故郷〉となり、同時にそれは〈今はすでに存在していない空間〉として我々の中に創造される。

  堅苦しい引用だが、身近なことに置き代えればすぐに理解できると思う。あなたが故郷を離れるまで、故郷はただの「生活空間」でしかなく、そこで生活しているうちはその場所を故郷として認識することは無い。しかしひとたび故郷を離れてしまえば、その土地はあなたの知らない場所であなたと同じだけの時間を過ごすことになる。大学入学と共に上京したあなたがサークルの飲み会でウェイウェイやっている間に、実家から車で5分圏内に巨大なイオンやジャスコが建ち、そのせいで幼い頃さんざんお世話になった古き良き商店街にはいつの間にかシャッターが降りている。親不孝のあなたが一年ぶりに実家に帰ってくるとそこにかつての面影は無く、あなたは肩を落として言うだろう。こんなところは私の故郷じゃない、「私がかつての時間を過ごしたあの場所は、私の中にしか無くなってしまった」。これが、〈今は既に存在していない故郷〉の正体だ。もっとポップな例をあげるとするなら、〈初恋の女の子に十数年ぶりに会ったらがっかりする〉というような話である。記憶の中で必要以上に美化してしまった少女のハードルを、現在の彼女は飛び越える事ができないだろう。西谷は映画『惑星ソラリス』を引用しつつ論を展開するが、その他にも『猿の惑星』の有名なエンディングを思い出してみればいい。宇宙船クルーが夢見た故郷、地球の姿はどうなっていただろうか。

 

 こうした故郷と自分の関係はなにも昭和の一時期に坂口安吾が題材にしただけでは無く、今でも繰り返し喪失のモチーフとして扱われる。その代表例が90年代後半以降の、幾多の「東京」ソングである。

 70、80年代、シティー・ポップは都市で生活する人、つまり都市生活に憧れる人々の理想を歌って流行歌となるわけだが、92年のバブル崩壊や95年に起こった震災や不幸な事件を経て、都市への憧れは緩やかに失われていく。96年にリリースされたサニーデイ・サービスのアルバム『東京』は、都市の華やかな世界では無く一見地味な生活空間にスポットを当て、都市の名前をタイトルとして冠しながら〈ここではないどこか〉を想うアンチリアリズムの空間を描いたものであった。そういった、東京にいながらにして東京で無い場所を空想するサニーデイ・サービスの『東京』は、後の「東京」ソングに存在するある一定の〈型〉を生み出したエポップメイキングな作品となる。ゼロ年代へ続いていくオルタナティブロックの先駆者となったくるりは、離れてしまった自分の故郷を想うノスタルジックな感情に「東京」というタイトルをつける。都市への憧れの喪失に伴って、東京は〈ここにいながらにして、ここではないどこか〉〈今ではないいつか〉を想うための、空っぽの入れ物となった。

 


恋におちたら - YouTube

 

 

 同時期の岩井俊二監督作品『スワロウテイル』(1996)も、上京によって故郷を失った人間の物語として読み解くことができる。『スワロウテイル』の舞台は、世界経済において〈円〉が最も高価である世界における架空の〈日本〉である。その〈日本〉には世界中から移民〈円盗〉が押し寄せ、彼らが住まう移民街の〈円都〉では日本語と英語と中国語が飛び交い、登場人物はそれらの言語が混ざり合った奇妙な言葉を話す。Chara演じる主人公のグリコは上海から出稼ぎにやってきた〈円盗〉である。グリコは共に〈円都〉にやってきた二人の兄を既に失っている。ひとりは死に、もうひとりは生き別れになった。故郷と二人の兄を失ってしまった彼女は、「自分が自分であることの証明はこの胸の蝶のタトゥーだけ」と語る。グリコは〈円盗〉の二世たちとロックバンドを結成しスターへの階段を駆け上ることになり、彼女のロックバンド、Yen Town Bandの曲として実際にリリースされたのが、名曲「Swallowtail Butterfly-あいのうた-」だった。

 しかし、『スワロウテイル』の注目すべき点は故郷を失ってしまった者、「東京」ソングの主人公としてのグリコを描いたことでは無く、むしろ故郷もしくは己のルーツを持たない者、喪失の経験すら持たない者として〈円盗〉二世、伊藤歩演じるアゲハへ視線を注いだことにある。『スワロウテイル』はアゲハが〈円盗〉である娼婦の母親を亡くし、その葬式のシーンからスタートする。〈円都〉というどこでもない場所で生まれ育った少女が唯一の肉親である母親を亡くすという、アゲハが自分が自分であることを保証するものを完全に失う場面から物語が始まるのだ。その後、故郷を持たないアゲハは故郷を失ったグリコと出会い、共に生活をするようになる。アゲハという名前も、グリコが自分の胸のタトゥーから彼女につけた名前だった。それ以前のアゲハは、ルーツどころか、自分を他の人間と区別する必要最低限のラベルである名前すら持っていなかったのだ。

 グリコの物語の裏では、アゲハをはじめとした〈円盗〉の二世、故郷を持たない人間たちによる居場所探しが行われる。〈Yen Town Band〉結成時にプロデューサーを申し出る男は、故郷やルーツを持たない〈円盗〉二世たちで新しい音楽をやらなければいけないんだ、と声を大にして語っていた。その結果結成されたバンドのメンバーは、グリコ以外は〈円盗〉の二世で構成されることになる。彼らの目的は、〈円都〉を名実ともに自分たちの故郷にすることだった。


YEN TOWN BAND Swallowtail Butterfly ~あいのうた ...

 

 しかし、西谷の議論を踏まえて考察すれば〈Yen Town Band〉は結成当初から見当違いの方向に走り始めてしまっていることがわかる。故郷とは自分の原風景を失ったとき、つまり喪失の瞬間に生まれるものであって、現在の自分がいる場所が故郷となることは永遠にありえない。故郷にいながら「ここが俺たちの故郷だ」と胸を張ることはできないものである。〈Yen Town Band〉結成時に演奏された彼らの序曲ともいえるフランク・シナトラの「My Way」は死に際に自らの生涯を振り返る男の歌だ。バンドメンバーは「僕たちのソウルじゃない」と言いながら渋々演奏を始めるが、グリコは彼らを唸らせる歌声で「My Way」を美しく歌い上げる。振り返る過去を持っているグリコと、一方で本当の意味での故郷を持たないバンドメンバーは、同じ目的を目指しているようでその本質は異なっていた。〈円盗〉二世たちとグリコの違いであり彼らの大きな確執は、それの良し悪しに関わらず故郷という自分と切り離された過去の有る無しに収束していくことになる。結局、〈Yen Town Band〉はグリコの〈円盗〉時代の過去によって空中分解してしまう。

 

 

 『スワロウテイル』は〈円都〉という架空の都市を用いることによって、失った故郷とルーツを持たずに生まれて育っている人間の姿を描いたが、これと同じようなことは現代の都市でも起こり得るのではないだろうか。北田暁大は『広告都市・東京』において、パルコ出店を起点としながら広告都市としての東京の変遷を追い、その中で90年代の東京を、大量の広告によって人を〈誰からも見られていないんじゃないか、という不安に陥れる〉街であるとしている。90年代後半から東京を舞台とした歌は東京にいながらにしてここではないどこかを夢見る歌へ変化していくが、その感情は北田が指摘したような東京の〈閉塞感〉や〈孤独感〉に由来するものであった。東京の空気に息が詰まったとき、故郷を持つ者は自らの心の中にある〈故郷〉を思い浮かべることでそこからひと時の逃避を図った。そういった息の詰まる場所で数少ない心のよりどころを求める想いが、数々の名曲を生み出した。しかし、東京で生まれ東京で育った、故郷を失う経験をしておらず、これから先も失うことが無いかもしれない人間は、いかにして東京と戦っていけばいいのだろう。『スワロウテイル』では、息が詰まる都市に生まれ、夢想できる逃げ場所としての故郷を持たない人間、つまり〈上京二世〉の象徴としてアゲハを描いたのである。物語が始まったときは名前すら持たないアゲハの姿は、生まれたときから〈誰からも見られていない〉街で埋没し続けている人々の姿とオーヴァーラップする。彼女は自分自身を失ったのではない。失う自分自身すら持っていないのだ。

増補 広告都市・東京: その誕生と死 (ちくま学芸文庫)

増補 広告都市・東京: その誕生と死 (ちくま学芸文庫)

 

 

 西谷修が提示した「ふるさと」論は、かつての自分が生活していた時間の流れをある一点で止め、空間を冷凍保存する試みであった。初恋の少女を想うように、故郷の姿を一番美しい姿のまま自らの中で留めることによって、その場所は都市と戦うことができなくなった自分自身の逃避する先として不可触のものとなる。それに対して、日々更新されていく都市の中で生活している人々は、いかにしてその中に自身の〈逃避先〉を見出せばいいのだろうか。

 

 日々更新されていく都市の記憶は、冷凍保存される故郷の姿に対して、そこで生活している者の前に常に新しいものとして現れることになる坂口安吾は故郷に戻ってその変化に嘆く感情を〈突き放たれる感覚〉と称したが、その言葉を借りるならば、東京に生まれ東京で生きる者は、常に故郷、つまり東京から〈突き放たれ〉続けるのだ。彼らは、生活の苦悩や仕事先での失敗、繰り返す挫折や敗北、それら全てを故郷での出来事として記憶していくことになる。故郷を持つものがそれを精神的な逃避先として美化することができるのは、故郷にいた時と現在の自分との間に目に見える形ではっきりと空間的な〈断絶〉が存在しているからである。故郷を持たぬ者は、かつていた場所といまいる場所の間に断絶が存在しない。全てが地続きで、かつて生きていた時間が、現在の経験と共に更新され続けていくのである。現在の自分の身に降りかかる挫折や敗北、失敗など、それらすべてが故郷の出来事として記憶されていく。むしろ、彼らは未だ〈喪失〉の経験をしていないのだから、自分が生きている場所を故郷として認識している訳では無いのだが。彼らは〈故郷〉を持たないのではない。東京での生活からドロップアウトしそうになったときに夢見る場所を持っていないのだ。

 東京生まれ東京育ちの者にとって、〈ここではないどこか〉の象徴として歌われる「東京」はノスタルジーを生み出すために存在するただの舞台装置でしかなく、楽曲の中で歌われる出来事も身を裂くようなリアルな出来事として受け入れることができないのではないだろうか。故郷を離れた者が思う〈あの頃〉と故郷に留まった者が思う〈あの頃〉は、似た感情であってもそこに付随するものは異なっている。方や切り離されてしまったがゆえのノスタルジーがあり、方や切り離すことができないがゆえのノスタルジーがあるのだ。


くるり - 東京 (Quruli - Tokyo) 百鬼夜行ver. - YouTube

 くるりが東京でいくら「君」のことを考えても、彼ら地元である京都との間には新幹線にしておよそ3時間程度の距離がある。しかし東京生まれ東京育ちの人間が「君」に会いたくなったら、よっぽどの事情が無ければ、最寄りの駅から私鉄に乗ってものの一時間ほど電車を乗り継げば会いに行くことができる。彼らにとっての東京は、過去と現在が混同する街であった。そこに空間的な断絶は存在しない。じゃあ会いに行けばいいじゃない、と思うだろう。しかし、東京生まれ東京育ちの人間なら想像できるかと思うが、そんな単純な話では無い。少なくとも僕、東京生まれ東京育ちの僕は、そんな気軽に過去と向き合い、それを現在と並走させることができるほど器用な人間では無かった空間的な困難さが、過去を自分から切り離すためのある種の安全な諦念として機能してしまう上京組に対して、東京で生活し続ける人々の過去を現在と切り離しているものは何もないと言っていい。彼らは、電車を乗り継げば会いに行ける程度の距離で自身の過去と向き合い続ける。かつての記憶は完全な過去のものとならずに、彼らの原風景は〈喪失〉と〈継続〉の間で宙吊りにされるのだ。

 〈Yen Town Band〉のメンバーは「僕らのソウルじゃない」と笑ったが、自らの生涯を達観し、全てに後悔は無いと歌う「My Way」は、自分から切り離されてしまった過去を美化し肯定したいグリコの歌であって、過去と地続きの現在を生き、切り離された過去を持っていない〈円盗〉二世たちにとっては、文字通り「ソウルじゃない」曲であった彼らにとって過去を肯定する瞬間とはつまり現在を肯定する瞬間であって、自分の人生を丸ごと全て肯定する瞬間であった。〈円盗〉である自分の生き方を探し続けているうちは、当分その瞬間は訪れないだろう。


YEN TOWN BAND結成の序曲「My WAY」 - YouTube

 

 さて、映画『スワロウテイル』で行われたアゲハによる居場所探しだが、一度は失敗するも、最終的には思わぬ形で〈故郷〉が創造されることになる。彼女は物語の中盤、〈円都〉からその生活の拠点を都市に移すことになるのだが、その中で〈Yen Town Band〉のボーカリストとして有名になっていくグリコをはじめとした〈円都〉で生活をしていた頃の仲間を失うことになる。最終的に彼女は〈円都〉に帰っていくことになるが、その時の〈円都〉はかつての自分が仲間に囲まれて生活していた〈円都〉とは何もかもが異なってしまっていた。アゲハは場所ではなく、〈円都〉で生活していた時代の仲間たちの喪失によって、あれだけ嫌いだった〈円盗〉に自身の故郷を見出すことになる