弱者の理論

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『ヒトクイマジカル』が物語脳にしかけるカウンター

 初めての試みとしてブログで論考のようなことをやってみたいと思うのですが、がっつりまじめな文章になってしまうと面白くないので喋り口調でゆるーくやりますね。
 題材は西尾維新戯言シリーズ5作目『ヒトクイマジカル』です。とりあえず今回はこの作品を“ライトノベル・キャラクター脳にカウンターを食らわせる作品である”、という視点でお話をしてみたいと思います。
  ちなみに、今回の話は作品のネタバレを含みますので、未読・読む予定のある方はブラウザのタブを静かに閉じるか、このブログの他の記事の方へ行って頂けると嬉しいです。

 

ヒトクイマジカル<殺戮奇術の匂宮兄妹> (講談社文庫)

ヒトクイマジカル<殺戮奇術の匂宮兄妹> (講談社文庫)

 
 では、作品のストーリーを簡単に、僕の話と関係する部分を重点的に解説していきます。主人公は戯言遣い、通称いーちゃん。作品中に名前は登場しないので、この文章中でもいーちゃんで統一しますね。他に登場するのが、戯言シリーズ前作でいーちゃんと出会った殺し屋一族の娘・紫木一姫(ユカリキ・イチヒメ 以下、一姫)。そして不老不死の研究をする学者の木賀峰約(キガミネ・ヤク 以下、約)と、その研究対象である不老不死の少女、円朽葉(マドカ・クチハ 以下、朽葉)。不老不死というショッキングな単語が登場しましたが、この文章中ではあまり関係ないような気がします。そして、一番重要なのが二重人格(ということになっている)の殺し屋、匂宮理澄(ニオウノミヤ・リズム 以下、理澄)と出夢(イズム 以下、出夢)。設定としては理澄が殺害前の情報収集などを担当する温和な人格、出夢が殺害を担当する凶暴な人格、とでも覚えておいてください。

 約が行っている研究のモニター兼アルバイトとして、人里離れた山奥の研究室に行くいーちゃんと一姫。そこで彼らは朽葉に出会い、約と朽葉を殺すためにモニターとして潜入している匂宮兄弟と出会います。ちなみに、いーちゃんは以前に一度、理澄・出夢とは顔を合わせています。そして、一姫のために殺し屋としての仕事はアルバイトが終わってからにしてくれと、いーちゃんは出夢と二人きりになった時に頼みます。この辺りは前作とも関わって相当深い事情があるのですが、ここで書く内容とはほとんど関係が無いのでばっさりカットします。研究が終わるまで殺し屋としての仕事をしないという約束をした、とでも覚えておいてください。
 そしてアルバイト前の検査が一通り終わっていーちゃんと一姫が研究室から一旦自宅に帰ろうとすると、そこまで乗ってきた車がパンクされ、帰宅できなくなってしまいます。ミステリーのお約束のように、山奥の山荘に登場人物たちが閉じ込められてしまうのです。研究室に残ったのはいーちゃん、一姫、約、朽葉、匂宮兄弟。帰宅する手段も無いので、彼らはそこで夜を明かします。しかし、翌日いーちゃんが朝起きると、その研究室にいる全員が殺されている。約、不老不死の朽葉、殺し屋の血を引く一姫も、匂宮兄弟も全員が無残な死体となって倒れているのをいーちゃんが発見する。



 ここまで書くと正統派のミステリーのようですが、この作品、ミステリー的要素は一切ありません。いや、正確にいうとミステリー的な視点で読みだすと完全に裏切られるような作品です。
 ネタバレする部分から書いていくと、この事件の真相、研究室にいる人々を殺したのは匂宮出夢です。殺し屋の匂宮兄弟というのはひとつの身体に二つの人格が入っている、といういわゆる二重人格の殺し屋などではなく、ただの見た目がそっくりな双子の兄弟が代わる代わる登場していただけだったのです。
 事件の真相はこう。自分がいる建物の中に同じ殺し屋の気配を感じた一姫が夜中にこっそりと布団を抜け出し、匂宮兄弟と2対1で対決。一姫は理澄を殺しますが、出夢に殺される。翌日の朝見つかった遺体は、理澄のもの。そして一姫を殺してしまったことでいーちゃんとした約束を守る必要も無くなった出夢は、目的通り約と朽葉を殺して研究室から姿を消す。ただ、これだけの事です。

 この作品を読むうえで最も注目すべきは、読み進めていくうえで僕たち読者が“無意識のうちに匂宮兄弟を二重人格だと思ってしまう事”にあります。
 仮に通常のミステリーで二重人格を扱うとしたら、それ自体がトリックの根幹を成すくらいのインパクトになってしまうでしょう。もし二重人格だと自称する登場人物が現れても、最初は演じているのではないかと疑い、最終的に疑いようが無くなって認めてしまう。これが、ミステリーの道具として二重人格を使えるようになるまでのプロセスだと思います。『デスノート』のLの台詞のように、“これはそういう事件(設定)なんだ”と思わせないと、それを舞台装置として使う事は出来ないはず。
 それにも関わらず、読者は匂宮兄弟が二重人格であることを無意識のうちに受け入れて、話を読み進めてしまうのです。



 いーちゃんと出夢が初めて対面する場面を見てみます。いーちゃんは理澄との対面を済ませているので、街中で倒れている人間を理澄だと思って近寄る。いーちゃんが肩をたたこうとすると、その人間はすぐさま飛び起きて襲い掛かってくる。目の前の相手は見た目は全く同じなのに、雰囲気や表情、眼つきが全く違うことに気付く。そして、その相手が名乗る場面を引用してみます。

 

 

 「《今》は違うんだよ……」そして《彼》は、名乗りをあげる。
<中略>
「今は匂宮出夢……《人喰い》の出夢さ」

 

 

 作品中で何度かイラストによって存在がにおわされている匂宮出夢が最初に登場する場面が以上の部分です。ちなみに、匂宮兄弟がきちんと二重人格であると語られるのはこれより少し後、その殺し屋の世界に通じている一姫の口を通してです。
 注目すべきは、この作品の語り手であるいーちゃんが一回目に初めて出夢と顔を合わせた瞬間に、一つの身体に二つの人格が入っているという事実を“疑うことなく受け入れている”という点にあります。二重人格、ウソだろ、といったような疑いを持つ場面や、それを真実だと確かめることも無く、“そういうものである”とされてしまっているのです。一姫から聞いたことも伝え聞いたものでしかなく、確固たる証拠の無いまま匂宮兄弟は二重人格の登場人物として物語の中に入って行ってしまうんです。



 では読者である僕たちは、どうしてこのある意味異質であり非現実的な二重人格のキャラクターの存在を受け入れ、そのままどこかへ消えてしまった殺人事件の犯人を想像することになるのでしょうか。その理由を、僕はこの『ヒトクイマジカル』という作品が一般的にライトノベルに分類されるからだと思っています。

 ライトノベルスニーカー文庫のような小説)的なキャラクターはパターンの組み合わせで成り立っている、と大塚英志は『キャラクター小説の作り方』で語っています。簡単に説明すると、何もついていない人間に髪型を決めて服を着せ小道具を持たせていくように、パターン、つまり記号を付けていき、キャラクターを作るというものです。この本の中で、大塚英志は自身が脚本を書いた作品である『多重人格探偵サイコ』も、物語上で使い古された記号である“多重人格”と“探偵”というふたつを用いてタイトルを付けた、と語っています。
 ここで語られているように、“多重人格”というのは物語に登場するパターンのうちの一つです。つまり、一般的に見たら不自然な“二(多)重人格”という記号でも物語の中なら許され、読者が違和感なく受け入れてしまう、ということです。物語を読むとき、僕たちはいわゆる『物語脳』になっているから、作品中のいーちゃんと同じように二重人格という記号をなんの抵抗も無く受け入れてしまう。その気付かないうちに行われてしまった“刷り込み”に、読者は最後の最後になってようやく気付くわけです。パターンに慣れてしまった感覚に対して美しいカウンターが決まった瞬間ということができるのではないでしょうか。
 ちなみに、匂宮出夢は初登場する場面で“西園伸二”という『多重人格探偵サイコ』に登場する、主人公に宿った人格のうちの一つの名前をあげます。確証はありませんが、西尾維新が大塚英二の語る、記号として使い古された“二(多)重人格”というものを意図的に使ったのかもしれません。
 少なくとも、西尾維新がキャラクターとその記号や物語論を逆手にとって作品を作っていることは間違いないでしょう。



 作品中で、出夢と理澄がただの双子であったことがきちんと語られるのは、物語の最後の最後です。姿を現した出夢と戦って重傷を負ったいーちゃんは、病院で顔なじみの看護師とこの事件について語ります。そして、その看護師、形梨らぶみは、概要を聞いただけで事件の真相を簡単に言い当ててしまうのです。
 らぶみは作品の途中には全く登場せず、すべて事件が片付いた後に登場します。そして、『ヒトクイマジカル』の最初のページにある“登場人物紹介”の欄にもその名前は登場しません。いーちゃんと同じアパートに住み、物語の進行にはほとんど関わらず会話にだけ登場する人物ですら“登場人物紹介”に名前が出ているのに、最後の最後に真相をずばりと言い当てるらぶみは紹介されていない。 つまり、らぶみは物語の内側に存在しない、外側の人間であると暗に示されているということです。
 物語脳、つまりキャラクターの記号やパターンに慣れていない人間にとってはそもそも二重人格のキャラクター自体受け入れられるものではなく、存在しないものとして扱われるものなのです。それを物語に登場しない人間であるらぶみは疑ってかかり、作品中の言葉を借りれば『あっけらかんと』事件の真相を見抜くことができた。これは、物語の内側にいる人間には不可能な事なのです。

 

 以上の点から、西尾維新の作品『ヒトクイマジカル』は、刷り込まれた物語脳にカウンターを入れるために書かれた作品である、と言えるのではないでしょうか。




 この辺りで、『ヒトクイマジカル』に関する論考を閉めたいと思います。僕は戯言シリーズで読んでいるのはこれと『クビシメロマンチスト』のみですが、そちらも物語的な思い込みに向けたカウンターが効いていてなかなかいい感じです。これをきっかけに興味を持って手に取っていただけたら、これほど嬉しい事はありません。僕自身も、他の戯言シリーズを読んでみようかなと思っているくらいです。

 長らくおつきあいありがとうございました。今日はこの辺りで失礼いたします。