弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

グループ交際に発生する数合わせの男とメタコミュニケーションについて

 いつかは一筆をしたためようと思っていたのだが、まだ自分の中でまとまっていない事について書こうと思う。それは自分の中でデリケートな問題であって、それをひとつの作品として形を整え、本当にいるかどうかもわからない読者の方々に見せるのはあまりにも野暮だと思ったからだ。
 この文章の目的は考察と提示である。これから自分が語る問題は、美しい結論を出すにはあまりにも酷な、我々の手の届く世界で起きている問題である。しかしその問題が大きく取り上げられ、議論の対象になっているのを目にした事は無い。その問題が我々の目に留まるようになり、議論の対象、そして必要悪として認識される事を願ってやまない。

 グループ交際というものがあるだろう。それを行っていた中学高校生当時はそこまで思っていなかったが、ダブルデートのもっと男女ペアが増えた物、トリプルデートのようなものと言って構わないだろう。つまり誰かが声掛けをして、男女比率がちょうど1:1になるように男と女を集めるのだ。そしてメンバーが集まったら皆でどこかへ出かける。カラオケとか、食べ放題とか、そんなもんだろう。比較的中学生時代にたくさん行われていたような気がする。恐らくバラ色の中学生活を過ごしたあなたは僕よりもこのグループ交際の実態に詳しいのではないだろうか。ここで重要だと思われるのが、男女比を1:1に持って行く事である。これがどうして重要なのかは後述しようと思う。ちなみに、同じように男女比1:1で行うのが望も増しいと言われるものに合コンがあるが、そんな大人の話はここでは行わない。自分がしたいのは、思春期真っ盛りの中学生の話である。
 この男女比1:1で行われるグループ交際にいつも登場するのが、『数合わせの男』である。バラ色の中学生活を送ってきたあなたにはそんな経験は無いだろうから、すこしだけ丁寧に説明をさせて頂く。
 ああいった形で行われるグループ交際には、基本的に中心にいる男女ペアがいる。つまり、誰にも悟られないようにちまちまと影で仲良くなり、あわよくばあわよくばな関係になりかけている男女である。このグループ交際とは、その男女ありきで行われる。つまり、彼と彼女を中心に出かけるチームの編成が行われるのである。仮にここでは、三人ずつ計六人の一番オーソドックスなチーム編成について考える。
 女子三人チームの編成は簡単だ。中心のひとりと仲が良いふたりが来ればいい。何故だか女子グループの中では内々に運ばれているはずの関係の事情を全員が把握している。その中で一番お節介を焼くやつや相手チームの中心にいる男と仲の良いやつがくれば三人が揃う。場の会話を盛り上げつついざという時は中心のペアにとって都合のいい状況を作り出したりと臨機応変な行動ができる、合格点以上のチームが完成する。
 問題は、言うまでも無く男子三人チームである。中心にいるやつ以外の二人に必要なのは、ただ女子グループと仲が良く、場の空気を乱さない事である。そのそもこういったグループ交際は大半が女子主導で行われるようなものであった気がする。最初に出来上がるのは女子チームで、男子チームはそれに合わせて急ごしらえした物であるのだ。この男子チームの一番の問題が、チーム内で情報の共有が行われていない事だ。今日の主役が誰か知らないまま、彼らは当日参加する事になるのである。男子チームのメンバーは、何が起きているのか知らないまま一日中引きずりまわされるのだ。このグループ交際に何も知らずに参加している僕、いや彼らの事は、何のためらいも無く『数合わせの男』と言い切る事ができるだろう。


 やっと前提を説明する事ができた。まだ我々はストレッチが終わってスタートラインに立っただけである。まだ走り出してすらいない。もうすぐピストルの音が鳴る。
 ここで、僕は声を大にして数合わせ反対を唱えたい訳ではない。彼らは少なくともその場では必要とされている存在だ。しかししょうも無い取り替え可能な存在として数合わせの男たちは消費され、ピンチヒッターのような形で舞台から一瞬で消えて行く。そんな彼らに数年越しに僕がスポットライトを当てたって構わないではないか。
 まず、こういった数合わせの男達がどうして生まれてしまうのだろうか。まだまだ行き先が見える事は無いが、お付き合い願いたい。


 まず最初に言い切ってしまおう。グループ交際に登場する数合わせの男たちは、便利な舞台装置でしかない。舞台装置であり、場に訪れる気まずい会話の隙間を埋めるためのBGMであり、場の中心にいるカップルという木の葉を隠すための森である。先程取り替え可能な存在として消費されると書いたが、それはあながち間違いではない。彼らの存在はグループで訪れた遊園地のメリーゴーラウンドと同じような物である。
 彼らが何故存在するかという問題は、冒頭で記述したどうして男女比を1:1にしなければいけないかという問題に立ち返る必要がある。
 まず、グループ交際の力を借りようとする男女は、多くが中学生、もしくは高校生であるという事である。この年の男子が女子をデートに誘い、二人で何処かに出掛けるという事は非常に高いハードルである。いや、少なくとも僕にとってはそうだった。彼らが誘い文句として使えるのは、「こんどみんなでカラオケ行こうよ!」が限界である。お互いを意識するあまりに訪れる沈黙やいつもの制服では無く私服の姿だという恥ずかしさを何とかするために、中心の男女ペア以外の人間が必要なのである。そもそも、二人で遊びに行く事が可能ならグループ交際というリスキーな手段を取るはずが無い。誰かに自分たちを観測されているというのはなんとも居心地の悪い話であるし、それに自分が連れてきたチームの男子が一体何をするかもわからない。このチーム男子の不確定性については後述する。
 そしてもうひとつが、中心にいる彼らのためにノイズを発生させる事である。ここでグループ交際が行われる原点に立ち返る。そこにあるのは男女双方向、もしくは一方通行の「僕(私)はあなたの事が好きなので遊びに行きませんか」である。しかしそれは、思春期真っ盛りの彼らの中ではほぼ愛の告白を意味する。そして話のデリケートな部分を避けた結果、彼らの間で「僕(私)はあなたの事が好きで一緒に遊びに行きたいのだけれど、ふたりきりは恥ずかしいので誰かも誘って行きませんか」といったように情報が変化してくる。以後は便宜上、グループの中央にいる男女ペアの想いは通じているとする。陳腐な言葉で申し訳ないが、いわゆる、両想い、という状態である。そんなご都合主義があってたまるかという声が聞こえてきそうだが、そんな事は無い。男が意中の相手に近付いて行けば、その情報は勝手に相手の友達である女子達へと伝わる。それが盛り上がれば勝手に女子グループからグループ交際の提案があるだろう。話を戻そう。ここで重要なのは言葉の表面こそ変化したがその根底に漂っている物は同じであり、言葉を交わす二人が全く同じ事を考えて理解しているが、まったく気付かない振りをしているという事である。これはある一種のメタコミュニケーションと言える。数合わせの男たちだけでなく女子チームの人々も、このメタコミュニケーション、つまりすでにばれている言葉の意図を隠すノイズの役割をするために駆り出されるのだ。そして、中心のペアは複数の男女が集まったグループの中で疑似的なふたりきりになるという体験をするのである。多くの男女ペアの中に埋もれてしまえば、グループの中央にいる男女ペアの意図が埋もれてしまうのだ。これが、男女比を1:1にしなければいけない一番の理由である。
 先程、数合わせの男は木の葉を隠すための森であり場の隙間を埋めるためのBGMと語ったが、彼らの存在理由は全てがこの例えに収束する。男女比が1:1で成り立つグループ交際とは、チームの中央にいる男女が“相手への感情を、相手から埋没させて見えないようにする”ことをお互いが行うために存在している。


 冒頭に記述したように、ここで自分がやろうとしている事は問題に対して自分の答えを示す事では無い。全ての人間に対して、問題を提示する事である。一カ月続くかどうかもわからないカップルを作るために人柱としてその身をささげ、訳もわからないままに捨てられて行った男子中学生たちの存在を全ての人間が知るべきなのだ。そしてかつて人柱となった男子達は声を上げ、かつて人柱を使った男子達はそっと布団にもぐり、かつての行いを悔むべきである。恐らく、人柱となった男子達は声を上げて君を罵倒したりはしないだろう。なぜならば、君が人柱として選んだのは、周りの人間たちと何不自由なく言葉を交わす事ができ、人当たりのいい、罵倒を行う人間からは最も離れた場所にいる男子達だからだ。
 しかし僕は、人柱であった男子達の声になろうと思う。風化・分解されて土に帰るべき問題をあえて取り上げて、かつてあなたの傷口があった場所にもう一度小さな引っかき傷を付けてしまおうと思う。
 僕が長い間自らの身を痛めつけながら行ってきた提示も、もうすぐ終わりを迎えることになる。決められた距離を全力で走り切った後の我が身には何が残るだろうか。恐らく、心地よい疲労と充実感で無い事は確かである。


 しかし未だ言及できていない事がある。今まで語った内容だけでは、中心にいるペアの女子以外の女子達も、数合わせでしか無いのである。
 個人的見解を語らせていただくと、ただの数合わせである男子達に対して、女子達がそれと同じであるかと言ったらそんな訳が無い。彼女達が数合わせの男子達と一番違っている点は、舞台設定がきちんとわかっているという事である。
 グループ交際がメタコミュニケーションの結果である事は前述した。その中心にいる男女は、彼らが作った舞台で彼らの役割を演じることになる。つまりここでは、“お互いの事が好きであるのにそれに気付いていなく、たまたまグループで遊びに来た男女”である。それと同様に、それ以外の面々にもそれぞれ同じ役割が与えられる。ここで注目すべき点は、中心の男女と女子チームの面々は、それがただの役割であるという事を知っているということだ。グループ交際とはメタコミュニケーションである。しかし、そのメタコミュニケーションがメタコミュニケーションと知っているかどうかで問題が大きく変わってくる。女子チームの面々は、今日のグループ交際が何のために行われているのかを知っている。中心の男女ペアを立てて、中心にいる男には積極的に話しかけないようにすべきだと知っているし、夜になっていい時間になってきたら彼らを二人っきりにしなければいけない事を知っている。しかし、数合わせで連れてこられた男子達はどうだろうか。
 彼らは自分が参加している場でメタコミュニケーションが行われている事を知らない。このグループ交際には明確な意図があって、自分はその意図のため乱雑に配置されたコマでしか無い事に気付いていない。いや、少なくとも意図が存在すること程度は把握しているかもしれない。しかし、その意図を把握して自分の役割を演じる事は彼らには不可能だ。彼らの役割は“存在している”ことであり、役割を果たすことが役割ではないのである。
 これが舞台である事を知らない人間が舞台に放り込まれ、グループ交際の幕はするすると上がって行く。企画の女子達と中心の男女ペア、つまり半数以上がこれが舞台である事を知っている。これを仕組まれた舞台であると知らずにいる数合わせの男たちはどうなろうだろうか。本当の世界に入りこむ事ができないゲームのキャラクター達のようなものである。次元の外から舞台を見降ろす人々と同じ視点に立つことはできず、これがゲームと知らずに時間を過ごすのである。それは舞台を見降ろす人間たちにとっては甚だ滑稽であり、ゲームキャラでありメタコミュニケーションに踊らされるピエロのような存在である。
 数合わせの彼らをゲームキャラと例えたが、一番の問題は彼らがプレイヤーキャラではなくNPCと言う事である。NPCとは、Non player characterの略、つまり、プレイヤーが意のままに操れない味方キャラクターである。普段は味方のはずが、NPCは時折飛んでもない邪魔をする事があるのだ。例えばターゲットの敵を飛んでも無い場所にふっ飛ばして攻撃を当たらなくしたり、フレンドリーファイアで自分のライフを削ったり。数合わせの男子達もこれと同じで、いつも場の空気を読んで動くとも限らないのである。不機嫌になって場の空気を悪くするかもしれないし、ペアの女子の方に絡みに行ってそもそもの作戦を滅茶苦茶にするかもしれない。しかし、数合わせの彼らは何も悪くは無い。彼らはそれがゲームであると言う事を知らないのだから。その場が舞台である事を教えない限り、その舞台で必要とされている行動を取る事は不可能なのである。
 意図の通りに動く事ができない数合わせの彼らに何の落ち度もない。そもそも、明確な意図をもって行われるメタコミュニケーションが高度すぎるというだけで、その意図を共有出来ていない彼らが正しい役割を果たすなんて到底不可能な話である。
 多くの場合、グループ交際によって行われたメタコミュニケーションの結果は、事後報告という形で行われる。つまり、あいつら付き合ってるんだって、という噂がどこかから回ってきてはじめて、数合わせの彼らはあの場が舞台であった事を知る。その瞬間、自分がピエロでしかなかった事と、あの舞台で行ってしまった愚行の数々を思い出すのである。


 ここまで筆を進めて、当時のピエロであった自分をやさしく抱きしめてあげたい衝動に駆られている。かつての僕に向かって何と言うのがいいだろうか。お前は悪く無いと言えば気が済むだろうか。別にあの場にいるのはお前じゃ無くてもよかったんだよ、と言うのはあまりにも酷である。しかし僕は目をつむれば浮かんでくるかつての自分自身を何処かに追いやって、必死に自らの傷をえぐる。いや、これは傷というほどのものではない。傷よりもささやかであるが、治りがたいもの。すぐに浮かばない比喩を考える事を止めにして、僕は筆を進める。
 もうすぐこの話は終わる。何度も言うように、自分がここでしたかったのは解決でも主張でも無く、提示である。問題は問題となってはじめて意味をなす。問題として扱われていない問題ほど、哀れで目をそむけたくなる物は存在しない。これから議論されるべき問題を提示するという明確な意思が、かれこれ三時間キーボードを叩いている僕の指をまだ頑張れと後押しするのだ。


 数合わせの男子達は消費されると前述したが、真実は少しだけ異なっている。正確に言えば、数合わせとして一カ月も続かないカップルの為に“何度も”消費されるのだ。
 ある舞台でピエロを演じた彼らが、同じ舞台でピエロを演じる事はまず無いだろう。同じメンツでグループ交際が行われる事はまず無い。まだ若い彼らの関係はすぐに消えたりまた生まれたりするものである。しかし、数合わせの男子達は少なくとも空気が読め、場の雰囲気を見出さない人間だと思われているから、彼らが別の場所でピエロを演じる可能性は十分にある。それでもやはり彼らはメタコミュニケーションが行われている事に気付かない。今度こそは、今度こそは自分にもと思ってグループ交際に赴くが、結局彼らは舞台装置なのである。
 そうしてグループ交際の場に何度も呼ばれる男子達は、“女子の存在が身近にあるにもかかわらず”、それに関わる事ができないという状態を強要される。女子チームの彼女たちにとって、数合わせの男たちはコマであり、ピエロである。取り替え可能な人間にスポットが当たる事なんていつになっても訪れる事は無い。彼らはいつの間にかピエロとしての腕を上げ、さらにメタコミュニケーションの中へずぶずぶと埋もれて行くのである。メタコミュニケーションの中に“個性”は必要とされず、ピエロとして腕を上げるという事はどんどん個性を失っていく事を意味する。
 これはあくまで最悪のケースでしかないが、数合わせの男子達が数合わせとして消費されるという事は彼らがいつのまにか個性を失うという問題をはらんでいる。数合わせとして消費されているうちは、彼らはNPCであり、没個性的に描かれるモブキャラでしか無い。


 思考の終わりが近づいている。
 僕は数合わせなんて無くすべきだと声を大にして言う事は出来ない。メタコミュニケーションの場で、彼らは少なくとも必要とされ、ひと月続くかどうかもわからないカップルを作るために役に立ったのである。それを悪だと言って切り捨ててしまう事は僕にはできない。
 何度も言うように、僕がこの場で行いたいのは問題の提示である。決して数合わせの男子達に肩入れし、彼らを何も言わずに抱きしめるような事をしてはいけないはずだ。しかし、そう言った僕自身の姿も含めて事実として問題として提示し、ゆっくりと文章にピリオドを打とうと思う。
 今日僕が提示した事実が、世間で多くの人々から新しく問題として認識されることを願ってやまない。