弱者の理論

場所と空間、重力とポップカルチャー。


只今、アーカイブ更新中…

ラーメンズでわかる非視覚メディア論

ワクワクする。こういう話、一周回ってすっげえワクワクする。

多少前提条件から面倒である非視覚メディアの話を、ラーメンズの戯曲を使ってなんとなくわかった気になろう、という試みです。お付き合いくださいませ。今回題材にするのは、公演『ATOM』から、「採集」を。

非公式動画ですが、こちらからどうぞ。三分割されています。→その1その2その3

僕はここで待っているので、ちゃちゃっと観ていただけると嬉しいです。なかなか素晴らしい作品ですので。 

ラーメンズ DVD-BOX

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文学、というかテクスト研究を行っていると、最終的に多くの問題が“視覚情報が無い”ことに帰結するような気がしています。

一人称が「僕」で叙述される小説を読むとき、読者のあなたは、語り手である「僕」が語った情報しか知ることができない。例えば、「僕」が今いる部屋の様子を「扉を開けると奥にベッド、その左に白くて大きい机が置いてあって、その上には一体型のPC。そしてその正面にはCDプレイヤーがあってこれから読むつもりの文庫本がたくさん積んである」と描写すれば、読み手であるあなたは僕の部屋の様子をなんとなく想像することができますよね?  しかし、僕の部屋の様子を実際に部屋に入って見たらどうなるでしょうか。机の上、一体型PCの真横にも大量の本が積まれていまして、読まなければいけない参考文献もその山の中に埋もれています。そして机のベッドと反対側の脇にはギタースタンドに立てかけられたテレキャスターが置いてあるし、そのさらに横には箪笥がある。僕が語った情報の中には存在しなかったものが、たくさん見えてきますよね?

つまり、小説を読んでそこで描かれている世界を想像するとき、読者は語り手つまりこの場合は「僕」が語ったことを手掛かりにすることでしか世界を想像することができないんです。語り手が、「そこに机がありますよ」、と言わなければそこに机は存在しない。存在しない、というより読書が想像することができない。語り手が存在する場所について、読者は語った情報しか知り得ない。その理由として一番大きいのが、読者は小説の中で描かれている世界を視覚で捉えられていない、ということです。

例えば同じことを映画にするなら、言葉を使って描写しなければいけない部分が全て映像になって視覚情報として飛び込んでくるので、こういったことが起きるわけはない。何故ならば、「そこに机がある」と言わなくてもそこに机があるのが写っているので、見ればわかるから。正確に言うと映画もそこに写りこむものを計算されて制作されているので簡単にいうことはできないのですが、便宜上そういうことにしておきましょうか。

 

何かしらのストーリーを語るとき、「語ったものしか存在しない」「語らないことは伝わらない」のが非視覚メディアの特徴、とでも覚えておいてください。そして、この例が一番メディアとして効いてくるジャンルがミステリーですかね。

ミステリーのお約束を記した「ノックスの十戒」の8つ目に、「探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない」って言うのがありまして。小説、非視覚メディアはすべての情報が文章になっている訳ですから、その特徴をプラスすると、「探偵は明文化されていない手掛かりによって解決してはならない」となりますよね。

つまり、漫画や映画などの視覚が存在するメディアでは、殺害現場の机の上をぱっと映せば済む訳で、「机のド真ん中に花瓶が置いてある」という不自然なことが起きていても、それを文字にして説明する必要はない。だって映像にして見せたんだもの。対して非視覚メディアだとこれだけのことが多少面倒になってしまう。机の上に明らかに変な場所に花瓶が置いてあることは伝えないといけないのに、「机のド真ん中に花瓶が置いてある」みたいに直接的な言い方をしてしまうと、これがヒントなんだと気付かれちゃうじゃないですか。ここで、ミステリー作家が読者をかわすための知恵が働くわけです。例えば、「探偵はまず机の中央の花瓶を慎重にどかしてから、被害者のパソコンの電源を入れた」みたいな形で、それとなーく触れる。いや、例文が悪いのは放っておいてください。あとは相手が左利きなのを伝えるために、「相手は右手でマグカップを口元に運びながら、手元のメモ帳に乱雑な文字で電話番号を記した」みたいな。


今までは小説について話しましたが、こうした特性は視覚が抜けているメディアでも同じことが言えます。僕が好きなもので言うなら、怪談。あと落語。このブログでもよく記事で用いる音楽の歌詞だってそう。

ミステリーじゃなくても小説ではこうした「語らないことは伝わらない」という特性を生かしていろいろなトリックが読者に対して仕掛けられますね。例えば、語り手が実は人間じゃなかった、とか、そこにいる人をいないことにしたり、とか。すべて映像にしてしまったら成り立たないものですね。



話の本筋からは多少逸れてしまいますが、この非視覚メディアを考察する上で、最も重要だと僕が考えているのが、情報量の問題。

例えば、【僕が机の上においてあるコップを手に取ってその中に入っているビールを一口飲む。しかしぼーっとしていたせいでコップの置き場所を間違えて床に落としてしまい、フローリングがビールまみれになる】。こうした一連の動きを映像にするとしたら、適当に見積もっても5秒あれば十分。しかも、カップが落ちてビールが床に広がるまでの流れがリアルタイムで描けますから、それなりの臨場感も生まれる。しかし、これを文章できちんと描こうとするとまた面倒なんです。

まず、文章と言うものは一本道ですから、映像の膨大な情報量に比べて書き手は読み手にひとつひとつ情報を渡していくことしかできない。映像だったら【コップ落とした→床にあたって音が鳴る→ビールが広がる】という三種類の情報が一瞬で見ている人に飛び込んでくるのに対して、文章だったらその3ステップをひとつひとつ言葉で説明しないといけない。もうひとつは、読むスピードは読み手次第ということ。コップを落としてその瞬間にビールが床に広がっていくときのスピード感をいかに文章で表現したところで、読み手によって殺されてしまう事が多い。

この、時間当たりに伝えられる情報量が非常に少ない、というところが非視覚メディアが抱えている問題です。

その情報量とテンポの問題によって、非視覚メディアでは不要な情報は一切語られないことが多いです。いや、不要な物が語られない、というより、必要な物しか語られない、と言った方が正しいでしょう。


ちなみに、この情報量の問題を、「時間当たりの情報量を変化させる」という方法で解決をしようとしているのが、稲川淳二氏の怪談。例として、「バス停」を。

中盤の、バス停で待っている女の異変に気づいて驚き、旦那さんが叫ぶ場面の話をしますね。

ここ、情報量が非常に少なくなってるんですよね。稲川氏は「お母さんがわーって驚いた」としっかり説明しない。実際にはっきり声に出すのは「お母さん」、「わーっ」くらい。補足情報としての描写はほとんどが早口で流されるだけ。しかし、説明はこんなに雑なのにもかかわらず、その場で何が起きているか自分たちには大体想像がついてしまう。

以前にこの話でレポートを一本書いたのですが、その時はこの状況を、“情報不足であるにも関わらず情報過多な状況”と説明しました。それまでは聞いた情報から物語の様子を想像する、という流れが一定のリズムが守られた上でストーリーテリングを行っていたものの、この状況ではその一定のリズムが急に崩されるわけです。早口で情報を伝えることによって、今までのリズムを上回る、処理できるかできないかぎりぎりの量の情報を聞き手に一気に叩き込む。これが情報過多の部分。しかし、情報を伝えるスピードを上げるために詳細な情報は犠牲になっていますから、伝えられるのは最小限の情報のみ、と言う点で情報不足。

効果的な最小限であるにもかかわらず最大限の効果を発揮する情報を、いっぺんに叩き込むということで、幽霊に対して驚く、という感情を聴き手に対して擬似体験させている訳です。


これ、前回のスガシカオの話と関連付けても考えられますね。前回の記事の後半で、僕は「スガシカオは重要かつ効果的な情報(単語)を語るだけで、聴き手から最大限の想像を生み出す」と書いたわけです。これも、週末の渋滞、車、助手席、という最小限であるものの最大の効果を発揮する情報を聴き手に放り込むことで想像をしやすくしているわけです。

こういう例を目にすると、人間の想像力ってなかなか優秀なんだなあと思いますよね。情報が少なくても、きちんと場所の説明をしていればその少ない情報をきちんと整理整頓して同じようなことを想像してくれる。稲川淳二氏はこのなかなか優秀な人間の想像力をいい具合に借りている、ということでしょうか。



そこで、ようやくラーメンズに戻ってきます

以前のスガシカオの記事で僕は、描写とは何もない舞台に舞台装置や小道具を持ち込む行為、と書きました。それを踏まえて、ラーメンズの舞台の様子を見てください。

なんと、何もありません。「採集」はとある学校の深夜の体育館が舞台の戯曲なのですが、そんな場所やシチュエーションの説明すらないままにふたりの男が卓球をしている場面から始まる。

そもそもラーメンズには現実には存在しない世界を舞台にした戯曲が多いんです。神様にお願いごとをしに行く、虫と新体操のような演技を行う、何重もの入れ子構造になっている落語、など。通常のコントでは、「普通の世界にちょっと変な人が来る」事がネタのスタート地点として使われることが多い。車の教習所を訪れる、かつてそこを卒業した男。転校生が宇宙人。とか。つまり、コントの土壌は、現実世界なんです。現実世界のルールを基にして、そこからちょっとズラして笑いを作っている。ちなみに、この現実世界を全くズラさずに「普通の世界で、普通の人たちが動く」コントを作るのが、東京03。この話はまた別の機会にやりましょう。舞台に情報が一切存在しないのも、こうした一般的なコントの作り方とは違って現実世界と舞台の世界を一切切り離すことを目的としているのでしょう。

まあいいや。こんなに書いておきながら、「採集」はそこまでズレた世界ではありませんし。

まず、このコントをジャック(片桐氏)の退場前と退場後で前半と後半に分けることにします。26分あるこの戯曲の大まかな流れを説明してしまうと、前半では状況説明と伏線を貼る作業。そして、後半では伏線を回収していく作業。あとコバケン劇場。先程話したミステリー小説と似た感覚で話をするなら、前半が事件パート、後半が解決パートと言った所でしょうか。

まず、箇条書きで前半の流れをおさらいしてみます。

①卓球台がある。(A*)
②状況説明。ジャックが高校の教師、プリマ(小林氏)が東京の花屋。
③プリマは東京に住んでいるのに対し、ジャックは地元(田舎)住まいな事。
④アルコール度数の高い、ウォッカ。(B*)
⑤跳び箱など、ここが体育館であることが暗示されだす。
⑥プリマがここにきている理由。高校時代のマドンナ。
⑦プリマは嘘をついて地元に戻ってきている。(C*)
⑧ジャックと標本の話。深く問うと、はぐらかされる。最初の違和感。
⑨ビール。実験室の味。(D*)
⑩包丁。研いだばかり。(E*)
⑪豚。「中身には興味ねえから」。違和感
⑫コートを借りていく。違和感。
⑬体操のマット。綿が出てるやつはお気に入り。(F*)
⑭倒した鞄から出てきた手帳。(G*)

ちなみに、*をつけた部分は、後々回収される伏線で重要な小道具です。⑭はジャック退場後ですが、後々回収される最後の伏線なのでここに書かせていただきました。

安直な説明ですが、まずこの伏線の貼り方がまず非視覚メディア的なんです。最初には何もなかった舞台に、話が進むごとにひとつひとつ小道具が置かれていく。小説の世界に「描写したものしか存在しない」ように、ラーメンズの舞台にも、ある、とされたものしか存在しないわけです。それと同じように重要なのが、全ての情報が必要最低限であること。多少の寄り道はあれど、示された情報の全てが後半で重要な役を果たすようになる訳です。

では、そんな伏線を回収していく、後半パート。

①はく製を作っていることを隠していた。
②はく製になっている動物。手帳に書いてあったものと同じ。(G*)
③伏線回収。包丁(E*)
④マット(F*)
⑤ビール(D*)とウォッカ(B*)
⑥卓球台(A*)
⑦嘘(C*)
⑧エンディング。

ここで最も注目すべきなのが、伏線回収の時に全く「包丁」や「マット」と台詞で言わない所です。前半の伏線を貼っている段階でその小道具を使った場所、小道具があるとされている場所に視線を向けるだけ、卓球台があるとされている場所に手を置くだけで、言葉にすることなく、観客の脳内から記憶と一緒に小道具を引っ張り出すことで伏線回収をしている

これ、さっきのミステリーと似ていますよね。「左手で文字を書いている」と言わずに左利きであることを伝えて、「花瓶がありえない場所に置いてある」と言わずに花瓶が邪魔な場所に置いてあることを伝える文章に、“言わない事を伝える”点でそっくりなんです。コバケンが手を置くそぶりを見せるだけで、「ああ、卓球台だったら人が乗るじゃないか」と、視線を床に向けるだけで、「ああ、研いだばっかりでよく切れる包丁があるじゃないか」と、僕たちは自分の想像力で足りない説明を補完をしてしまう。この言ってない事を伝える、相手の想像力を借りる、っていうのは稲川淳二氏の怪談とも共通していますね。


非視覚メディア論からは少し離れてしまいますが、この観客の想像力を信じて作っている、ある意味綱渡りと言えるような戯曲を成立させているものが、ふたつ、ありまして。まずひとつめが前半でジャックの言動にきちんと違和感を持つ場面が作られていること。そしてもうひとつが、最後に貼られた伏線を最初に回収すること。

先程、この戯曲の構造をミステリーに例えました。そもそもミステリー小説っていうのが何故面倒な用意をして読者とガチバトルをしないといけないのかと言うと、小説自体が「これはミステリーだよ!」と言っているからなんです。この小説がミステリーとわかっていれば読書は、この後には事件が起きて解決するだろう、そしてその解決のヒントは文章中に書かれるだろう、と身構えて小説を読み進めていくわけです。もし作品がミステリーという身なりをしていなければ、読者は作品の細部に目を凝らして読むようなことをしないかもしれない。犯人当てをしようとも思わないし、ひとつひとつの細かい事柄何てすぐに忘れてしまうでしょう。しかし読者にそれをさせないのは、紛れもなくこれがミステリー小説だからです。過不足無く提示されたすべての情報が最終的に何かしらの意味を持って戻ってくることを知っていますから、細部に目を凝ら差なければいけなくなる。こうした、ミステリーという土壌だからこそ生まれるある種の作者と読者の連帯が、ミステリーでは起きているんです

そこで、「採集」です。この前半部では、ジャックの言動に存在する明らかな違和感が強調されます。はく製の話をはぐらかし、良く切れる包丁と、豚の中身には興味ないという発言、何故かコートを借りていく。この場面で、ジャックという人間に明らかにわかりやすく違和感を持たせているんです。そして、“ジャックは何かしらの隠し事をしている”ことを観客に伝えているんです。貼られた伏線は回収されるもので、生み出された謎は全て解決されるべき、という発想に基づいて、観客はジャックの隠し事を明かすべく、無意識のうちに舞台で起きることのひとつひとつに注目しなくてはいけなくなる。それによって、包丁やウォッカなどのひとつひとつの小道具の場所までが知らず知らずのうちに頭に入ってしまう。これがひとつめ。

後半の伏線回収では、最後に貼られた伏線である、手帳の内容が最初に回収されます。これによって、これから舞台にある物をひとつひとつ拾っていきますよ、と後半の怒涛の伏線回収の準備をしている訳です。Cは少し例外ですので別に考えると、最初に使っていた卓球台を最後に回収するのも面白いですね。観客の記憶を少しずつ手繰り寄せるように伏線回収をしているということでしょうか。

そんな、記憶をさせる方法と、記憶を引き出す方法のふたつで26分の綱渡りを完璧に行っているんですね。



さて、そんな感じでラーメンズの戯曲を非視覚メディアと関連付けて考えてみました。

僕はお笑いを見るときに芸人を「ネタ」と「芸」のふたつに分けて見ていくことが多いです。構成やアイディアが「ネタ」の部分、演技だったりパフォーマンスだったりが「芸」の部分。最近ハマっているピン芸人で言うなら、バカリズムは「ネタ」の人で、劇団ひとりは「芸」の人、と言ったところでしょうか。いえ、ふたりとも両方すごいんですよ。

 

ちなみに、「芸」の方のラーメンズ小林氏はこちらから。→バニーボーイ

…動いてるだけでこんなに面白いんですよ。 


今回はラーメンズの「ネタ」の部分、脚本やら構成やらに注目して見ていったわけですが、後半の怒涛のコバケン劇場を見てもわかるとおり、ラーメンズは「ネタ」だけでは無く「芸」の人でもあるわけですよね。こっちの分析も出来たらもっと面白いんでしょうが、今の実力ではここまでです。

 

ラーメンズの「ネタ」の部分に興味がある方は、文庫で出ている「小林賢太郎戯曲集」をお勧めします。

小林賢太郎戯曲集―home FLAT news (幻冬舎文庫)

小林賢太郎戯曲集―home FLAT news (幻冬舎文庫)

 

全4冊。これは一冊目。ちなみに「採集」は三冊目に収録されています。

ネタをDVDで見ながら、どこまでが台本通りでどこからがアドリブなのか見るのもなかなか面白いです。